テントの歴史

人類初期古代ローマ帝国時代中世18世紀20世紀半ば
モンゴル ユルタ人類の歴史の中で最初に発明されたのは持ち運び可能な家としてのテントでした。はじめはゆっくりと段々と早まっていく進歩の過程で人類は、狩猟で殺した猛獣の皮を使いテントを作りました。(創世記27・3章)。遊牧民の住居は持ち運びが可能な構造を必要とし、それゆえ軽量で強く設置・解体が簡単な住居として、テントを発明したのです。

インディアンテント(ティピー)新石器時代に入ると、人類は農耕技術を発明し、定住生活をするようになりました。農業の発展により、古代エジプトでは麻、中国・インドの綿を紡ぐ技術すなわち紡績産業技術が発展し、古代エジプトの壁画には、織機を手で上下させ、簡単な棒を差し込み分けながら指を上手に使う様子が描かれています。テントが織機によって生産されるのはまだ何世紀も後のことであるが、農業の発展がテントの進歩に関係したのは間違いありません。

 

ベドウィンテントラップランド・ラップ人のテント、モンゴルのユルタ(ゲル)、北アフリカからイラクにわたるベドウィンのテント、そして北アメリカ・インディアンテント等、素材は獣皮から山羊の毛で覆った布や麻に変化したケースもありますが、民族や地域によって、独特の住居(テント)が作られ現在でも遊牧民に伝承されているのです。

古代ローマ帝国時代に入ると多くの円形劇場が誕生しました。ポンペイの壁画にこの円形劇場が描かれていますが、1979年ドイツのライナー・グレーフェ博士がこの円形劇場に開閉式の写真帆布を利用した屋根が取付られていたと発表しています。また、六千人以上を収容できたというカスティオ劇場の膜構造研究により解明された膜屋根のポンペイの壁画展張方式は、現在の膜構造物に少なからず影響しているのです。

ポンペイの壁画
ポンペイの壁画
円形劇場推定図
円形劇場推定図
Simone Martini(ラ・テンダ・ダ・ソーレ)より中世に入ると天幕はベット飾り、王座や司教座の装飾の一部として広まっていきました。
現在でも残っているキャノピー(天蓋型の日除け)という言葉は、ラテン語の“カナピウム”(蚊を追い払う網のついたベット)から来ています。

テントの語源はラテン語の“テントリューム”すなわちミリタリーテント(軍需用テント)から出ています。イタリア語のこの意味は日の光を避ける、目隠しをする、住居のインテリアまたはアウトドアの一部として使用する生地の総称としています。

(ラ・テンダ・ダ・ソーレ)より人類の歴史は、たえず起こる戦争の歴史と背中合わせでした。当時の人々は、常に死と隣り合わせで戦地に出た人々にとって心の安まる場所はありませんでした。その戦地における住居は、移動が可能なテントでありましたが、軍人にとってこのテントの中だけが心の安まる空間であったに違いありません。

(ラ・テンダ・ダ・ソーレ)より十八世紀に入ると、イタリアでは玄関や店舗入り口、窓やバルコニーに強い日ざしから内部を保護するテントが採用されていきました。テントが作る影は店舗の内部の商品を保護するだけでなく、道行く人を立ち止まらせ購買意欲をそそらせる効果がありましたが、それだけでなく、カラフルな色彩の生地が町の外観に彩りを与えました。

同世紀にフランスでは、ルイ十五世が権力を握っていました。フランス語で侯爵夫人のことを“Marquise”(マルキーズ)といいますが、ルイ十五世の溺愛したポンピドゥ侯爵夫人のファッションは当時評判となり、ファッション業界に少なからず影響を与えました。

(ラ・テンダ・ダ・ソーレ)より現在、“Marquise”(マルキーズ)という言語は侯爵夫人の意味の他に、建物入り口のひさし、日除けテントと同じ用途の瓦やガラス板でできている固定式テントの意味を持っていますが、当時は、この侯爵夫人のファッションと引っかけエレガントのシンボルとして建物や店舗を華やかにする多色づかいのストライプ柄のテントのことを指し、“Marquise”(マルキーズ)と総称したのです。現在ではマルキーズという言葉はイタリア、ドイツでもオーニングのことを総称していますし、英語でも太陽を覆うという意味に使われています。

テラスオーニング二十世紀半ばまでこうしたテント生地の素材はコットンが主流でありましたが、化学繊維の台頭で徐々に天然素材の需要は減ってきています。代わって現在、ポリエステルやアクリルの需要が伸びてきており、こうした素材のお陰で、雨よけとしての利用、太陽光線を浴びても色彩の劣化がなく、しかも紫外線を遮る効果を持つテントは建物の装飾とともに、ゆとりある暮らしの空間の創造に役にたって行くことが予想されます。