MENU

 月刊中小企業レポート
> 月刊中小企業レポート

月刊中小企業レポート
更新日:2006/03/30

特集1 地域おこしと経済活性化
―「エコール・ド・まつしろ」「諏訪大社御柱祭」の誘客策から―

■諏訪御柱祭
7年に一度、諏訪人の心意気が熱く燃え上がる!
天下の大祭「諏訪大社御柱祭」


1200年以上の歴史を誇る「諏訪大社式年造営御柱大祭」

 今年4月11日午後5時40分、諏訪大社御柱祭の下社山出しの最後を締めくくる最大のハイライト、「秋宮一」の御柱の「木落とし」が始まった。木遣りとラッパ、太鼓の音が鳴り響く中、氏子たちが緊張の面持ちで柱にまたがる。そして轟音とともに、土煙を上げながら豪快に木落とし坂を滑り落ちる巨木。振り落とされては懸命に群がる無数の氏子たち。25万5千人の観客から大歓声がわき起こった。
 諏訪圏6市町村が7年に一度、寅と申の年に熱く燃える、諏訪大社御柱祭。諏訪人の財産と、時には命さえもかけて、モミの巨木を山から人力だけで曳きだし、諏訪大社の4つの境内の4隅に建立する祭りだ。
 諏訪御柱祭の起源ははっきりと分からないが、平安時代初期、桓武天皇の頃にはすでに行われていたという。1200年以上前のことだ。正式名称を「諏訪大社式年造営御柱大祭」というように、本来は神がよみがえるための社殿を造りかえる祭事。7年ごとに行うのは、その建築技術を次代に伝えるためもあると考えられている。

御神木にふさわしいモミの巨木の確保が大きな課題

上社里曳き
上社里曳き
 上社の前宮(茅野市)と本宮(諏訪市)、下社の春宮と秋宮(ともに下諏訪町)の各境内に建てられるモミの巨木は、「一之柱」から「四之柱」まで合計16本。一之柱は約17メートルと一番長く、二之柱以降は約1.5メートルずつ短くなる。「本宮一之柱」と「秋宮一之柱」が最も長く太い。今回、本宮一は目通り周囲が3.0メートル、秋宮一は3.34メートル。まさに御神木にふさわしい、堂々たる巨木だ。
 上社の用材が伐り出されるのは大社社有林「御小屋山」。山は茅野市玉川神之原の8軒でつくる「山作衆(やまづくりしゅう)」が管理する。各家は世襲により何百年にもわたって集団を維持。用材選びの仮見立て、本見立てから伐採、境内に建てる前に御柱の先端を三角すい状に削る「冠落とし」なども行う、上社御柱祭には欠かせない存在だ。
 ところが昭和34年の伊勢湾台風での倒木被害が影響し、前回から御小屋山からの調達が不可能に。前回は下諏訪町の東俣国有林から譲り受け、今回は北佐久郡の立科町有林からの調達となった。
 一方、下社用材は代々、東俣国有林からの払い下げ。ここでも御神木にふさわしい巨木は不足しているといい、両社とも用材の確保は大きな課題だ。

上社山出しを皮切りに、祭りは始まる

上社山出し
上社山出し
 そして申年の今年。4月2日の上社山出しを皮切りに、祭りは始まった。
 上社山出しは、4月2日、3日、4日の3日間。初日は雨の中、八ヶ岳山麓、茅野市と諏訪郡原村の境の綱置場から、上社御柱で最も太く長い「本宮一」を先頭に八本の御柱を曳行(えいこう)。甲高い木遣りの声と、ラッパの音。巨木に付けたメドデコと呼ばれるV字型の棒に、揃いの法被を身につけた氏子たちが鈴なりに乗り、おんべを振って気勢を上げる。
 見せ場は2日目と3日目。氏子たちを乗せた御柱が次々と急坂を滑り落ちる「木落とし」、そして雪解け水が流れる宮川に巨木と氏子が入水し渡る「川越し」だ。3日目は季節はずれの雪が降りしきる悪天候。力を合わせ、懸命に曳行する氏子たちに気迫がみなぎる。午後6時半近く、最後の「前宮四」が川を渡り、「御柱屋敷」に到着した。
 御柱祭の第二幕となる下社山出しは、4月9日、10日、11日の3日間。スタートは下諏訪町大平の棚木場(たなこば)。初日は「春宮四」を先頭に3本の御柱を曳行した。引き綱を曳く氏子たちは木遣りを受け、「よいさ、よいさ」とかけ声をかけながら、民家が並ぶ大曲の難所を通過し、最大斜度35度の木落とし坂へ。そして次々と、豪快に木落とし坂を下った。
 3日間にわたって曳行と木落としが続き、下社御柱8本すべてが下諏訪町東町上にある「注連掛」に安置された。

華やかな歴史絵巻の里曳き。フィナーレは、建御柱

下社里曳き
下社里曳き
 「諏訪人」という言葉があるように、諏訪の人には特有の気質があるといわれる。それは「一度決めたら、たとえ厳しい道でもわが道を行く」という精神。それは、諏訪圏のモノづくりの歴史にみられる旺盛な起業家精神にも色濃く映し出されているように思える。
 明治時代、農村から立ち上がった製糸産業は日本はもとより世界にその名を轟かせ、「製糸王国」として隆盛を極めた。その後、製糸産業が没落すると、今度は諏訪地域全体が精密産業へと転換。戦後の発展を担うモノづくり企業が次々と起業し、「東洋のスイス」と称えられるまでに成長していった。つねに積極果敢に新しいモノづくりにチャレンジし、それを極め、大きな潮流を創りだしてきたのである。その旺盛な起業家精神には、「たとえ厳しい道でもわが道を行く」という諏訪人気質が確かに息づく。
 一方、12トンほどもあるといわれる巨木を人力だけで曳く、御柱祭。ここでいう「命がけ」の言葉は、比喩でも誇張でも何でもない。現実だ。今回も含め、骨折などの大けがを負う人々は絶えず、時には巨木の下敷きになって命を落とす人も出る。そんな祭り好きの男を送り出す、妻の心配はいかばかりか。それでも、それを最高の名誉と御柱の先頭に乗って木落とし坂を下りる若者たち。御柱祭のたびに夫婦の間で「離婚話」が出る、というのもうなずける。
 御柱祭を1200年以上にわたって支え続けるのは、脈々と受け継がれる、このような諏訪人気質なのだろう。期間中、休業する企業もあるというほどに、諏訪人が燃え上がる7年に一度の御柱祭。今年の決算は、いかに。


寄 稿
御柱祭の思い出
長野県中小企業団体中央会 諏訪支部長 田村 春夫

 信濃国一之宮諏訪大社御柱祭を間近に迎えて多忙な今日此頃でございます。
 御柱祭も毎回変わり、小生が一番最初に父親に手を引かれて、初参賀したのは、9才の時でした。午前3時に家を出発して休み休み4時間かけて松明を手にして御小屋明神に辿りつき、何百人もの明り丁度富士山の初日の出、御来光同様、長蛇の列、ようやく夜も明け奥山も人、人、人、人で賑わい始める。腰をおろして朝食をとる。魚と玉子焼の美味しい事。今でもその味が懐かしく心に焼き付いております。神事が終わりいよいよ伐採、白装束の山作りの方々が朱塗りの斧を高く振り上げ、ヨイショ、ヨイショと云う掛声が御神体山に響き渡る。暫くして、大音響と共に大木が倒れる。何十人もの人々が一斉に御神木に飛び乗る姿、今でも当時の姿がはっきりと目に浮かぶ。
 父、曰くお前も大きくなったら強く逞しくなって今日の祭事の様に頑張るだぞよと、云われた言葉が甦ってくる。小生二度目の御神木伐採の時は幼年15才、一通りは覚えて良く理解出来た。3回目21才晴れて念願の初体験。身体全体に熱さを感じ、血の騒ぎを感じる。念願のメドに乗りたい一心で先輩の御気嫌取りを一生懸命下働きに盡してようやく上から5番目に乗らせて、もらう事になった。何があっても、この席は人に譲らないと、自分自身に云い聞かせ、テコで尻を叩かれても又乗るの繰り返し、繰り返し、あまり尻を叩かれすぎて痛くて歩くにも歩けない程になった。夜、風呂に入りお袋が背中を流しながら尻が黒ずんでいるが、どうかしたのか、と尋ねられた。そこで、お袋、山は雪が多くて足を滑らせて岩に当ったョと、返事をする。気を付けろョーと何も知らないお袋は心配して言う。今でも当時の言葉が思い出される。心苦しかった自分に言い聞かせて、頑張るんだ、頑張るんだ、本当に苦しかった、自分自身の試練の時と云い聞かせて、頑張った。豪壮・勇壮右に左に御神木が揺れる。男冥利に尽る、素晴らしい、感激、感激、言葉に云い表わせない感激が身に泌る。天下の木落し坂も5番目に乗せて頂く。感無量……。
 昭和37年度の御柱祭は前回の経験を生かして山出し、木落しも良く熟知して楽しい御柱祭となる。メド3番、川越し三番、建御柱5番目を確保出来た。次回昭和43年御柱祭はメド一番の華を取る。川越し一番、建御柱も頂点に立つ。小生33才。体の動き、身のこなし総てが気持よく動く。建御柱本一の頂点での感激。何万人もの盛大な声援、ユックリ、ユックリ観衆の頭上に現われる…興奮のルツボ。割れんばかりの観衆の声援。ヨイトマケー、ヨイトマケー、一声、一声御神体山に響き渡る。ゆっくり、ゆっくりと巻き上がる。夢に見た本一建御柱に乗る実感、なんと云ったら良いでしょう言葉に表わせない感激……。
 地上16米の頂上に立つ感激、又感激、観客よりの声援、拍手の嵐……。やっぱり本一は素晴らしい。感無量である。昭和43年~昭和55年、前宮御柱曳行、盛大に取り行われる。
 昭和56年、小生45才、諏訪の平で最年少の大総代となる。
 昭和61年、抽籤大総代となる。一月元日より毎日お詣りに、諏訪大社を訪れる。いよいよ1月15日より氏子衆150人の参加を頂き、必勝祈願。毎朝5時、凍るような寒さ、手も足も痛くなる程である。来る日も、来る日も毎日願掛け。どうか本宮一の大きな柱が引けますようにと、ひたすら神様にお願いするのみ……。此の頃よりNHK中部テレビ、LCVが毎朝自宅にお宮に祈願の様子を撮影に来るようになり一段緊張感がましてくる。出社しても毎日毎日、本籤の練習。来る日も来る日も、抽籤の事ばかりが頭から離れない。日毎に早朝祈願の氏子の人達の数、区旗の数も増し、28部落もの氏子が何と380人という大勢……。
 大幟旗も立ち、無言の励まし、日毎に重圧を感ずる反面、勇気が胸に込み上げてくる。良い御柱を授けて頂きたい一心……。頑張れ、頑張れ、頑張らなければ氏子の人達に申し訳ない……と、自分自身に云い聞かせ、頑張るぞ……。抽籤の朝は、守屋山と八ヶ岳の水脈合いまって湧き出ずる御神水を頭からかぶり身を清め、村の鎮守様にお参りをし、区民会館にて区民120人の激励を受けて、諏訪大社抽籤式場へと向う。丁度戦時中の出征兵士の見送り時と同じ様に、区長から激励を受けて出発……。果して区民の皆様の期待に応える事が出来るだろうか……、いやどうしても応えなければならない、元気を出して頑張るんだと、自分自身に云い聞かせ冷静に、冷静にと、胸騒ぎを抑え、区民に守られて諏訪大社へ向う途中、何人かの人に社長頑張れョと激励の声を掛けられる。頑張ってくるョと、高々と手を挙げて応える。何としても良い柱を授けて頂きたい一心……。抽籤も間近に迫り、自分自身に落付け、落付け、冷静に、冷静にと言い聞かせ大社にと近づく。いよいよ御神殿に最後のお願いをして抽籤会場に入る。木遣りに、ラッパ隊の大応援。加藤宮司様より抽籤についての諸注意を受けた後、抽籤式。以前より会社にて練習を重ねてきた努力が実り、念願の本宮一の御柱が当ります様にと祈りながら御神体山側の籤を引かせて頂く。不安の中にも重みを感ずる。紙縒を解く。指先が震えてなかなか解けない。やっとの思いで開いてみると、なんと夢にまで見た本一ではないか……。自分自身を疑う。もう一度冷静に見つめる……。やはり本一である。神職様のマイクから、ちの宮川本宮の一とアナウンスされ会場は興奮のルツボ。良くやった、良くやったと肩を叩き抱き合う姿……。あの光景は小生、一生涯忘れる事の出来ない感激の思い出の時であった……。あゝこれで氏子の皆様に喜んでもらえる。寒風の中、早朝五時からの祈願の恩返しが出来たと自分自身に云い聞かせ神殿を後にする。外では肩車でワッショイ、ワッショイと大騒ぎ。公民館は2ヶ所とも、押すな押すなの超満員。木遣りにラッパの大賑わい、この光景は何とも表現できない光景……。夜11時すぎまで次から次へとお祝いの来客、おめでとう、おめでとう……。昨夜は心配で、心配で眠れなかったのに、一晩でこんなにもの、変りよう。自分自身が戸惑いを感ずる。一夜明ければ清々しい日本晴、最高の気分。こんな気分は人生はじめての体験……。
 茂み深い奥山、御神体山に響き渡る木遣りにラッパ、斧音、天高く聳える御神木……。
 山野を曳行し、天下の木落し坂、川越し、木遣りと進軍ラッパにて約20キロを曳行し、無事諏訪大社境内への建御柱を夢見て、感激、又感激。
平成16年4月14日
  
このページの上へ