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月刊中小企業レポート
更新日:2006/03/30

新春特集座談会 企業サバイバル時代を生き抜くために
~「元気印企業」にみる中小企業の生き残りの秘訣~

主催者挨拶

開会にあたって

庄村専務
●庄村専務

 本日はご多忙の中、新春懇談会にお集まりいただきましてありがとうございます。
 大変厳しい経済環境下にあり、長野県内の中小企業にもさまざまな影響が及んでいます。一方、そうした中にありながら、活力のある取り組みや事業展開を図っている企業も見受けられます。
 本日はこのような、我々から見て、非常に元気な企業のトップの皆さまにご出席をお願いしました。
 小川社長の東洋精機では、世界に向けて工作機械を輸出されています。花村社長のちくま精機では、明科に本拠地を置いて大手メーカーのマザー工場という考え方の中でおやりになっているとお聞きしています。小林社長のシンエイ・ハイテックでは、大手との取引がなくなる中、社長自ら先頭に立って新たな受注開拓をされているようです。夏目社長の夏目は、明治元年創業の老舗流通企業です。現在、提案営業を推進するとともに、最近は中国に拠点を設け、委託生産や開発輸入などを展開されています。
 皆さま、それぞれ特色のある元気な企業ばかりですが、その秘訣は何かというところで、ぜひご示唆をいただければと存じます。また、企業経営その他に関しまして、皆さまの忌憚のないご意見、ご提言なども頂戴できればと思っております。どうぞご自由にご発言をいただき、実り多い座談の場とさせていただければ幸いです。
 まず、それぞれの企業のご紹介をかね、経営で心がけていらっしゃることなどをお話しいただければと思います。

国産初の多軸タップ盤の開発から、専用機・マシニングセンタへと展開(東洋精機)

小川社長
●小川社長

 東洋精機は諏訪圏内の茅野市にあります。茅野市といってもなかなか認知がなく、北海道あたりでは諏訪市は知っているが、茅野市といっても誰も知りません。
 当社の標語は「センス・アイデア・チームワーク」。これは創業間もなく創業者がつくったものですが、会社にとって必要ということでそのまま踏襲しています。
 創立48年が経った現在、工作機械の設計・製造・販売を中心に、半導体製造装置の設計・製造・販売、時計・自動車・コンピュータ関連部品の製造・販売を事業内容としています。工作機械は専用機、マシニングセンタ、多軸加工機(ボール盤)、治具、ストッカーなど、半導体製造装置は半導体のテストハンドラー、テーピングマシンなどを手がけています。時計・自動車・コンピュータ関連では、諏訪にいた頃から時計分野を長く手がけていましたが、それは今や中国にほとんど移り、現在は自動車部品が中心になっています。
 当社の歴史は、オルゴールの串割自動機、カメラのボディの穴開けタップを加工する多軸ボール盤の開発・製造から始まりました。そして、カメラのボディには160ほど穴とネジがありますが、これをあらゆる方向から一度に穴を開けることができる国産初の「多軸タップ盤」を開発しました。単軸はありましたが、多軸はモーターで制御するのは邪道だということで誰もやらなかったため、日本国内にはなかったのです。それを最初にやったのが良かった。
 その後、カメラのボディがプラスチックになったことから、自動車部品分野へと入っていきました。20年前からはマシニングセンタと半導体製造装置の開発を開始。得意先はほとんどメーカーと一次下請けで、工作機械の90%が自動車関連分野です。
 量産の部門では3年前から、ディーゼルのコモンレールという部品の加工を手がけています。当社は設備投資関連製品が多く、つねに好不況の波に洗われるため、何とか安定したものをやっていこうと部品の量産に着手したのです。ディーゼルはヨーロッパでは環境に良いという評価があり、コモンレールは将来非常に有望な部品といわれて始めました。確かに規制が厳しくなっているので、国内トラック向けにも非常に活発に動いています。

商品はソリューション機能、人と技術をフル稼働(ちくま精機)

花村社長
●花村社長

 ちくま精機は明科町にあります。明科という地名を知っている方は非常に少なくて、県内でもどこにあるか分からない人が多い(笑)。当初はデメリットと感じることが多かったが、今は小さな町だからかえって分かりやすいし、町からも大事にしていただいていて、とても居心地がよいです。
 当社は県内大手メーカー一社に“100%依存”の下請です。事業構成は、プリンタヘッドと関連要素部品の製造が3分の1、デジタルカメラ及び携帯電話用液晶モジュールの実装が3分の1、通販専門のパソコンの組み立て及びアフターサービス、プロジェクタのデバイス製造が3分の1、という比率になっています。社内での生産合理化のための検査装置、組み立て自動機を設計、製造する開発技術という部門があり製品開発にもトライしています。
 当社の35年の歴史は、大きく3つの段階に分かれます。最初の10年は「生産能力補完機能」を果たした時代。先代社長が時計部品製造のために興した会社ですが、3年ほどで実質的には私が後を任されました。当時、この手の下請はただ人を集めて、指示された作業をやっているだけだと、親会社の社員にいわれ悔しい思いをしました。
 80年代から90年代前半にかけては、「製造技術代替機能」を果たした時代。他社との差別化を意識し、製造技術力で勝負する下請になりたいと、FA、自動化を手がけました。プラザ合意直後の不景気のまっただ中でしたが、現在地の明科工業団地内に新本社を開設し、現在に至っています。
 3段階めは技術融合・革新期ということで「テクニカルサポート・アウトソーシング機能」の時代。取引先の業態が大きく変わり、組み立て部門が国内の外注から海外に出るようになり、インクジェットプリンタの製造も始まりました。当社は、タイミング良く新本社に広いクリーンルームを持っていたおかげで、海外シフトの影響を小さくすることができました。今は、24時間稼働体制や生産変動に対応するため、社員と同じ人数の構内下請や派遣の社員が働いています。

開発主体の会社をめざし、ニッチ分野でコアテクノロジーを蓄積(シンエイ・ハイテック)

小林社長
●小林社長

 ちくま精機さんは大手メーカー100%というお話ですが、シンエイ・ハイテックはそれがかなわず今日に至っています(笑)。
 当社は94年に信栄工作という会社から分離独立した会社です。信栄工作は大手電機メーカーの下請けが主体で、かなり忙しかった。ところがオイルショック、円高を経験する中で、仕事量の確保はかなり厳しい状況になりつつあることを実感として感じ始めました。
 それまで親会社とはお互いに何も言わなくても分かるような良い環境で仕事をしており、そんな中では他社の仕事は到底できませんでした。ところがオイルショック、円高と時が経つうちに少しずつ仕事量が減り、少ないパイを同じ下請け同士で取り合うという状況になってきた。それを見て、これではいけないと言ったら、個人攻撃まで受けるようになってしまいました。それならば、これからは開発を主体にした会社にしていかなければ到底無理だと、94年に分離独立したのです。
 県外企業に営業に行くと、まず言われたのが「お前のところの技術は何だ」。しかし、私たちに特別な技術はありません。まったく下請けの発想で、今までこんな仕事をしたことがあるというだけです。
 これではいけないと、それからは営業よりも開発に軸足を移しました。開発には素人の人間ばかりでしたが、今までやったことのない加工に取り組んだ結果、意外にもその技術をお客様が認めてくれるようになりました。今はパソコン、携帯電話やデジタルカメラ、メモリーカードなどの分野における製造技術を買っていただいています。
 反省すべきは、大手メーカーと一緒に開発ができる体制や、ちくま精機さんのように“売れる技術”を持っていなかったこと。だからこそ私は社員に徹底して、ニッチな部分でコアテクノロジーを蓄え、スピードのあるスリムな会社にしようと訴えています。シンエイ・ハイテックが創業して10年。当時入社した社員は人の2、3倍働いてきてくれました。そのおかげで私は生かされてきたと思っています。
 当社は長野市柳原に本拠を置き、関連会社である信栄工作、高品位のメッキを手がける三鷹工芸の3社とグループを組んでいます。それぞれが競い合ってお互いに成長しようというのが分社化の考え方です。

急速な時代の変化にいち早く対応し、厳しい時代に立ち向かう(夏目)

夏目社長
●夏目社長
 流通業界は今、ひと言で言って大変厳しい状況にあります。元気が出るような話と言われても、無理ではないかとすら思ってしまうのですが。流通業界はメーカーとエンドユーザーの中間でモノの流通に携わるということでは共通ですが、取り扱う分野もきわめて幅が広く、一概に規定できません。従って、業界を代表してものを言うことはとても難しいですね。
 夏目の創業は明治初年、あるいはそれ以前とも。歴史はきわめて古いんですが、当時と今とでは、やっていることがまったく違います。創業当時は麻問屋でしたが、モノの移動に携わる商社的機能も果たしていく中で、荒物雑貨の流通を担うようになってきました。もし、そのまま荒物雑貨の道をずっと歩んでくれば、今頃は量販店相手に日用雑貨品を入れる問屋として消滅しているか、値付けで徹夜作業してるか、どちらかだろうと思います。
 大きな転機は戦争でした。統制経済で我々が扱うような生活必需品の会社は組合にまとめられてしまいました。戦後、再び分かれましたが。当時、必需品のマッチを全県的に扱っていましたが、これが大きかった。戦後、マッチが広告媒体として目をつけられ、荒物雑貨に携わるよりも販促、広告宣伝用品にシフトした方がいいと、荒物雑貨関係は分離させました。
 もう一つがビールです。キリンビールはいくつかに分社された後、キリン本体は後発でスタートしたので流通ネットがない。そのため、問屋機能を持っている我々のような会社が扱っていました。その部門はしばらくの間保持しておりました。紙を扱うようになったのは戦後。教科書を自前で作る信濃教育会では紙の調達に苦労しており、その調達を担ったのが現在の紙部門のスタートでした。
 東京に出たのは昭和30年代。時計がとてもよく売れた時代で、当社の東京ににおける商売の中心は時計の販促品、つまり時計のおまけの部門を担当させていただくためでした。
 昭和40年代には、今後はビールも量販店を相手にしなければならなくなるという動きが見えてきたので、長野市内のキリンビールを扱う皆さんで合併し、長野キリン販売という会社を作りました。そういう意味では、極めて早い段階でスケールメリットを求めた合併をしたといえるでしょう。
 当社は、マッチがライターに変わるなどさまざまな時代の波にもまれ、つねに時代にあった対応を迫られながら、今までやってきました。さらに、身内がやっていた繊維関係の製造・販売の会社をグループに加えるなど、いろいろな商品やメーカーともつきあってきました。
 かつて流通業は、モノを真面目に運んだり、きちん管理して流通させていれば、よもや死んでしまうようなことはないと思っていました。ところが今、メーカーは中間流通業を見捨てて短絡化、もしくは違うシステム構築に走ったり、あるいは小売業やエンドユーザーが極めて寡占化状態になってきた。製造業は自分の工夫次第で作るモノを変えることができますが、流通業は与えられたものを与えられた所に移動する機能しかなかったのですから、きわめて厳しい状況です。それがここに来て、我々が一番困っていることです。
 しかし当社には、つねに時代の光の当たる方向にシフトしてきた経緯があります。今は中国に拠点を設けて、モノの流通だけでなく、アセンブルを加えることでトータルにコストダウンを図っていく、新しいビジネスモデルを模索しています。
 もっとも、時代の変化は急速です。私共は官公庁納入を主体とした繊維関連企業とともに企業グループを形成するとともに、いろいろなお力を借りて平成14年12月、工場を中国上海に立ち上げました。今年1月の第一期生産ではかなりコスト差が出て良かったと思ったのも束の間、秋には納入価格が3分の1に下落しました。そのくらい海外に出ても儲からない。大手商社などが作った中国工場も赤字に転落しています。工場を持てばお荷物になるし、工場を持たないと品質、納期の管理が成り立たないという、ジレンマに陥っています。
 そこで当社は、皆さんが中国に行かなくても私共がフォローしますという、同業零細企業の中国向けのお仕事のお手伝いも始めました。ご同業のお仕事や、それにまつわる他の仕事にも広がってきています。
 流通はそのような状態。今まで通りのやり方では、一生懸命やるとか努力、真面目という問題ではなく、ほとんど生き残れないところまで絞りこまれています。流通は業態変化を含めて、かなり思い切って、しかも早めに考えないといけない。とにかく波が早いものですから。大変な時代になったなと思っています。
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