龍渓硯の歴史
今から170年ほど前、高遠藩では財政難を立て直そうといろいろな施策を実施したなかで産物会所が創設されました。
そのころ、この上島村の百姓が鍋倉沢で砥石を掘って作間稼ぎをしておりましたが砥石になる石が少なく、掘れば掘るほど黒い石ばかりでありました。たまたま当時川島の一ノ瀬に寺小屋の師匠をしていた渕井椿斎がこの黒い石に目をつけ硯を作って使用してみますと、墨のおりがとてもよかったので村人達に硯作りをすすめました。
こうして鍋倉沢の砥石が硯石へと変わっていきました。
これに注目した高遠藩は、御留山としてすべての硯石を産物所へ取り入れ、硯作りの先進地である甲州から職人を招いて技術の指導をさせました。買い上げた硯は大名などへの贈り物とされ民間に流伝することなく、一時は秘硯といわれた時代もありましたが、その後江戸や大坂など領外へ「高遠硯」あるいは、「鍋倉硯」として販売されるようになりました。
しかし明治時代担ってから鉛筆・ペン・万年筆などの普及により硯の使用が少なくなり次第に衰えましたが、大正が過ぎ昭和になり硯我見直され需要が増し、今村や渡戸では再び硯屋さんのいる村となりました。昭和10年、当時の長野県知事大村清一氏によって「龍渓硯」命名され、この石で作った硯を「龍渓硯」と呼んでいます。
尚、「龍渓」の名称の由来につきましては、天龍川水系で産出する石ということで、「龍」の一字を冠したのですが、「渓」につきましては、天龍川水系の横川川の渓流、あるいは渓谷美の素晴らしさから「渓」をつけたという説と、中国広東省の古来有名な硯石の産地端渓で硯が製作され、広く世界で愛用されていることに因んで「渓」の一字を頂いて命名されたという説があります。
~辰野町ホームページより転載~
技法紹介
- 採石・小割り
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採石場より原石を掘り出し、タガネとハンマーを使い石目を見ながら選別します。
- 外形造・はつり
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両面を平らになるように削り出す。この時にどんな硯にするのかがおおよそ決まります。
- 彫り
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石の形に合わせて硯を彫ってゆく。一気に彫るのではなく、徐々に丸みを出してゆく。道具は、大きさによってさまざまな四角・丸・くり(半月型)の鑿(のみ)を使い分ける。
- 研磨
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表面・側面・背面をやすりで丁寧に磨く。
- 漆塗り
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漆を4~5回塗って仕上げます。
作品
石の形を生かした硯は大小さまざまなものがあります。