飯山仏壇

飯山仏壇の歴史

飯山市は、長野盆地の北端、千曲川に沿い、すぐ隣は越後の国新潟県です。1579(天正7)年上杉謙信が築城し、江戸時代は本多氏の城下町として、千曲川舟便の起点であり、物資の集散地として栄えた街でありました。島崎藤村の代表作の冒頭の一節に「さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前に見るような小都会、奇異な北国風の屋造、板葺の屋根、または冬期の雪除けとして使用する特別の軒庇から、ところどころに高く顕われた寺院の樹木の梢まで一すべて旧めかしい町の光景が香の烟の中に包まれて見える。」とあります。

この地にいつ頃から、仏壇作りが始められたのか定かな記録はありません。ただ室町時代から浄土真宗が北陸から伝播し、飯山を中心とする北信地方に広く根を降ろしていった事実が、仏壇作りの素地としての地域性をもたらしていたことは確かであります。一般に地元では1689(元禄2)年甲府から寺瀬重高なるものがきて、素地仏壇を手がけたのが始まりだといわれています。塗仏壇が用いられるようになったのは、それからずっと遅れて越後潟町から来た鞘師屋佐七なる者によるというのが真実のようであります。

幕末の頃、稲葉喜作が出て、彼は仏壇彫刻の名手でありましたが、この稲葉家の祖先で彦次郎清久、彦佐吉弘らが京都に住み、或いは仏門に帰依し、仁兵衛に至って飯山に定住したということは、飯山仏壇が京都の流れをくむものであり、喜作の頃からその声価を高め製作方法も分化したものと思われます。

制作行程

木地工程
  • 「ほぞ取り」、「穴ほり」、「小穴づき」により部品組立のための雄型と雌型を作ります。
  • 5枚の板を接着し、鉋で面取りして弓型の長押(なげし)を作ります。
宮殿工程
「桁組み」、「破風作り」、「下張り板作り」、「タルキ作り」、「肘木組物作り」、「肘木作り」、「柱ヌキ」により宮殿の部品を作り組立てます。 
彫刻工程
木取りにした素材に草花・花鳥獣・人物等の絵柄を描いて、ノミ等で彫ります。
塗装工程
いったん組立てた木地を「崩し」て漆塗装を行います。下塗り・研ぎ、中塗り・研ぎを行い、本漆による花塗り、または呂色塗りを行います。
錺金具工程
  • 鍍金→切断→模様打ち等→紅付けにより銭金具を作ります。
  • 素材は銅または真鍮で、様々な鏨(たがね)を駆使して、複雑な模様が刻んでいきます。
蒔絵工程
  • 孔雀・牡丹・菊・桐・鳳凰・蓮・桔梗・萩・山水・天人・絞・かすみ・唐草などの絵柄を扇・裏戸・引戸・引出し・唐戸の裏板などに描きます。
  • 蒔絵に立休感をもたせるために下絵の上に貝の粉を使った胡粉とニカワの混合物を筆で盛り上げてから、漆を塗って金粉で仕上げます。これを胡粉盛り蒔絵と言います。
金箔押し工程
箔下塗を柔らかい和紙で仕上げ拭きし、金箔を押して真綿で拭きます。(艶出し箔押し方) 「箔仕上げ」と「金粉仕上げ」の二つの方法があります
組立工程
 仕上げ作業を終えた部材を組み立てます。すべて手作業で作られている飯山仏壇は、分解し部品を洗浄し再塗装することで、新しく蘇り、代々受け継いで使用できます。洗って再塗装することを「せんたく」と呼びます。

飯山仏壇の「せんたく」
飯山仏壇はその特徴である「本組み」により、木材を組み立てて作られています。このためクサビを抜くと一つ一つの部品に分解できます。分解した部品を洗浄乾燥し、新たに漆を塗ったり、金箔を貼り直すことができます。もちろん木製部品だけでなく、金属部品も洗浄し塗装し直すことができますから、何年経っても新品同様に生まれ変わります。これを「仏壇を洗濯する」と呼びます。何代にも渡って長く使われることが前提の仏壇だからこその先人達の知恵と言えます。

作品

iiyamabutsudan
「本組み」で作られた飯山仏壇であれば飯山の仏壇店が責任を持って洗濯承ります。お気軽にお問い合わせ下さい。

飯山仏壇事業協同組合URL:http://www.avis.ne.jp/~butsudan/

2017/05/02