天文11年(1542)京都知恩院二十一世笈性上人が廻国修行の祈り、荒廃していた小堂信楽院を復興。永禄三年(1560)武田信玄の発願により建立されたと伝えられ、最初は無量寿院西行寺と称していた。以降、仙石氏岩村田藩内籐氏の菩提寺となり、門外には内藤氏三代下総守正国の広い墓域に巨大な五輪塔が見え、仙石秀久の弟内膳政直が乱心し、この寺に蟄居され没しているので、秀久墓の横に政直の五輪塔もある。

江戸期には信濃国浄土宗五か寺(西念寺・松本春了寺松代大英寺・伊那来仰寺・諏訪貞松院)の宗派頭で、本尊の阿弥陀如来は平安末期定朝様式の作といわれ永禄6年(1563)修復の墨書銘があり県宝に指定されている。
永年三年(706)火災で焼失。同七年再建されているが鐘楼、楼門はじめ堂塔が整っており、特に数多くの円柱により建てられた楼門は珍しい。