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月刊中小企業レポート
更新日:2006/10/09

コラム

イノベーション

長野県中小企業団体中央会副会長 春日 英廣(長野産業機材協同組合理事長) 私の座右の銘は「企業は本業を離れてはいけない、本業を続けてもいけない、本業の中味を変えること、これがイノベーションであり、生残りの唯一の道である」であります。弊社の起源は善光寺のお膝もと桜小路(桜枝町)で代々雑貨商を営んでいた大和屋春日商店の二男として生まれた初代栄太郎(祖父)が、同町に明治29年麻問屋春日商店を開業したのが始まりであります。当時信濃は全国有数の麻の生産地であり、中でも北安曇と上水内がその中心をなしておりました。この上水内の集散地として発達したのが、善光寺西部の桜枝町、西町、栄町でありました。当時麻は長野市の重要取引物資として全国に出荷しておりました。当然栄太郎も麻商として明治・大正と隆盛をきわめ北信で一級の大店となりました。
 しかし、昭和に入っての大恐慌が発端となり麻も斜陽産業の様相を呈し、更には日本の大陸進出に伴う戦況の拡大と共に軍需物資としての統制を受けることになりました。従って、当時大部分の麻屋が廃業に追い込まれたわけであります。そうした状況下二代目春日栄太郎(父)は、上田蚕糸専門学校繊維紡績研究室の協力を得て、製麻過程で生じる統制外の屑麻と価値なしとされていた繭毛羽の利用を考え、耐久・耐熱・耐油性にすぐれた絹麻パッキンの開発に成功いたしました。この特許を基に陸軍燃料本部に売り込みを開始すると同時に軍需工場の指定を受け、日本特殊機材工業株式会社として新発足させたのが昭和19年のことでありました。このパッキンは、南方石油基地の製油設備の油漏れ止めとして有効に活用されました。つまり今で言うところの産学官連携によるベンチャー企業としてスタートしたのであります。戦後は海外からの物資も入荷するようになり復興産業向けの工業用パッキン製造へと転換致しました。また昭和30年代からの日本の自動車産業の勃興と共にこの技術を基にクラッチフェ-シングの製造に着手いたしました。丁度昭和50年代には日本の商用車用クラッチの60%のシェアを誇るまでに成長し弊社発展に大きく貢献いたしました。しかし、私が社長に就任した昭和60年に入りますと自動車の海外生産の移行が顕著になると同時にまた、オートクラッチの急速な普及と相俟ってクラッチビジネスの縮小を余儀なくされ、また新たな転換が必要となりました。
 そこでたまたま昭和36年頃よりデュポン社が開発したテフロン樹脂の成形加工を一部パッキン材として手がけておりました事が幸いし、導入当初では、余りに高価な樹脂の為、用途範囲が限定されており従って売上の20%程度のビジネスでありました。しかし今日の半導体産業の成長に伴って高品質、高性能な用途が拡大したことが起因し、現在は半導体洗浄装置の部品製造へとここ10年来の内に主力製品として転換させることに成功いたしました。時代の変化とニーズに適応し祖父、父、私と代が移るごとに仕事の中味を変えてまいりました。しかし昨今、時代のテンポは激変しております。中小企業としての特性を生かしニッチな分野でも特色ある企業として次なるイノベーションに挑戦してまいりたいと思います。

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