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月刊中小企業レポート
更新日:2006/03/30

元気な企業を訪ねて ―チャレンジャーたちの系譜―

地域に根ざした商品づくりとまちづくりに情熱を傾ける。
大切なのは「十年先百年先をめざして今努力すること」。


限会社 御菓子処 花岡
代表取締役 花岡 利夫さん


自家製和菓子と洋菓子が評判の地域を代表する人気店

自家製和菓子と洋菓子が評判の地域を代表する人気店 しなの鉄道田中駅前を中心に約760メートルにわたって、よく整備された美しい街並みが続く田中商店街。近くには伝統的な宿場町の家並みが保存され、昭和61年に「日本の道百選」、62年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された「海野宿」がある。
 商店街のほぼ中央にあり、大きな木立と石のアプローチが迎えてくれる落ち着いた佇まいの店、それが「御菓子処花岡」。日本有数の産地として知られる東御市産のクルミを使った、自家製オリジナルの和菓子と洋菓子が評判の地域を代表する人気店だ。
 本店のほか、上田市内二カ所、軽井沢一カ所のショッピングセンターに出店。さらに長野市にも単独店舗を展開し、特に店内のガラス越しにバウムクーヘンを焼く様子を見せる工夫なども功を奏し、長野市周辺での評判も上昇中だ。
 50坪の広々とした店内。白い壁、地元の古い蔵を解体した際に譲り受けた黒くて太い梁、大黒柱の存在感を感じさせる黒々とした鉄の通し柱など、和洋が調和したモノトーンの空間づくりが見事だ。
 和・洋菓子が豊富かつ美しくディスプレーされ、商品一つ一つに味のある手書きのPOPがつけられている。お茶とともに作りたてのお菓子も味わうことができる喫茶スペースも明るく、おしゃれだ。店に隣接する古い蔵をそのまま活かしたギャラリーや石畳の通りも、同社が店との一体感を感じさせるように整備したものだとか。
 御菓子処花岡の創業は大正元(1912)年。先々代が小諸の和菓子屋で修業途中に独立し、開いたのが始まりだ。
 「戦後、問屋に特化するか、あるいは製造・販売に特化するか悩んだ末、後者を選択。まんじゅう、大福などのあんこものを主体とする生菓子屋を営むようになったと聞いています」と話すのは同社三代目、花岡利夫社長。
 信州大学農学部在学中、夫人と知り合い学生結婚。そば研究で日本屈指の権威、氏原暉男教授の研究室で勉強中だったが大学を中退し夫人の実家に入った。

5年先10年先どうありたいかを考えて努力するべきだ

 「妻の実家に入った当時、これからは洋菓子の時代だとみんなが考えていたし、私も田舎では和菓子も洋菓子もやっていかないと事業としてはうまくいかないのではと考えました。自分なりに何か新しいことをやっていきたいという気持ちも強かったのですが」
 家業を継ぐことを決めた時、花岡社長は洋菓子への進出を義父である先代社長に進言、受け入れられる。そして自ら出身地である山口県宇部市の洋菓子店「松月堂」などで二年間、洋菓子づくりを修業。さらに長野市の「シュークリーム」古越一藏シェフに師事した。
 修業を終えた1976年、26歳の時に花岡に入社。本格的に和菓子・洋菓子の両輪の事業展開に舵を切る。
 洋菓子製造のために新たな設備投資が必要だったが、花岡社長は「ある程度の機械化」を志向。当時としては思い切った投資をし、新しい店づくりに取り組んだ。その時掲げた売上目標が5000万円。当時としては破格の目標だ。「まず5000万やるためにはどういう施設、どういう店が必要かと目標を定めました。そのために今やらなければならないことは何かを家族や社員に話し、一つ一つ承認してもらった」という。
 「菓子屋が成功するためには、まったくの手づくりか、大がかりに機械化して流通に乗るかなんですが、当社は中間を狙わざるを得なかった。これは最も苦しい選択。でも味が落ちない限りは機械で作った方がお客様に安く提供できると考え、ある程度まで機械でやる体制を整えました」
 遠くに大きな目標を置き、今日やるべき事をやりつつ、中間的目標を定め一つ一つ実現していくこと。それが花岡社長の経営戦略だ。
 その土台をなすのが、座右の銘とする「一年を生きんとするものは蔬を植えよ 十年を生きんとするものは木を植えよ 百年を生きんとするものは徳を植えよ」という孔子の言葉。「要はいかに生きるか。今は苦しくても、五年先、十年先どうありたいかを考えて努力するべきだという思いでずっと生きてきました」。

「和菓子・洋菓子・クルミ」の三本柱を活かす店づくり

 同社の商品戦略の基本は、地域的特性を活かしたオンリーワン的価値を持った菓子づくり。今どんなお菓子が消費者に受けるかをつねに考えながら、どの商品ジャンルでも専門店に負けないよう技術力と素材の良さに磨きをかける。
 「時代のトレンドに対応し、つねに微修正をしていくことが大切」と花岡社長は強調。時代をとらえる自らの動物的感覚を大切にし、トレンドリーダーと自分の感覚のベクトルが同じ方向を向いているかどうかのチェックを怠らない。
 最近も消費者が贅沢なケーキを望んでいると感じ、手のかかる高級ケーキを手がけるようになった。「修業時代の、『四人家族が千円で優雅にお茶が飲めるお菓子を作るのがケーキ屋の努めだ』という教えを守り、今まで原則として禁止していたんですが」。導入直後から評判を呼び、今では高級ケーキの売れ行きの方が以前のものを上回る勢いだという。
 同社の三本柱は「和菓子・洋菓子・クルミ」。それを結びつけるのが自然の素材感を活かした店づくりだ。古い蔵の梁や古木、デザイナーに依頼した通し柱の鉄、アプローチの石畳、販売カウンターのムクの木など、木、石、鉄、銅、土、しっくいといった素材が各店舗に共通した味わいを醸し出している。
 そして経営戦略で一番の課題が人材の活用と育成だ。
 同社では1988年本店改装、1992年丸子店、一九九六年軽井沢店に出店。2000年には上田店出店と本店建て替えが重なった。そして2005年長野支店を出店。この間、定期的に社員を増やすことで必要な生産量の確保を図りつつ、週休二日制への対応など社員の待遇改善にも取り組んだ。
 「人材が育たないうちに店を出していくことの辛さも感じてきた」と花岡社長は打ち明ける。「経営的には厳しいが、それを乗り越えていかないと人材は育たない。そこに大きな葛藤があります。また一方では、意欲を無くした社員を引き留めることのデメリットも勉強させられた。私の仕事は社員のやる気をさらに伸ばしていくこと。辞めたいという人には独立などを支援、協力することで、後々良い人間関係を保つことに重きを置いた方がいいと考えるようになりました」。
 社員全員に求めるのは、心を込めた接客をすること。心を込めて作ったものを心を込めて売りたい、お客に気持ちよく買いものをしてもらいたいという気持ちからだ。製造に携わる予定の社員もお客の気持ちに立った菓子づくりができるよう、最初の一、二年は接客を経験させる。

クルミを植えて、日本一のクルミの里を守る

 東御市が日本有数のクルミの産地になったのは、大正四(1915)年秋、大正天皇の即位御大典記念として和(かのう)地区(当時の和村)全戸にシナノクルミの苗木が配布され、栽培を奨励したことに始まる。
 ところが伊勢湾台風(昭和32年)やアメリカシロヒトリなどの被害にあい、地区内のクルミは次第に減少。「地域の特徴といえば何といってもクルミ」と、花岡社長がお菓子の材料としてクルミに手を出し始めたのと軌を一にして、さらにクルミの木が切られていった。
 「それはたまらない」と、花岡社長は動く。「平成元年前後に雑木林を借りて自ら開墾し、クルミを植え始めたんです。たまたまNHKのディレクターに知り合いがいたので番組で取り上げてもらい話題になりました」。
 それがきっかけとなって、行政、大学教授、加工業者、生産者など約二十人ほどのメンバーが集まり「日本クルミ会議」を設立。地元でもクルミ復興の気運が高まっていった。当時二千本程度に減っていたクルミの木も四千本を超えるまでに増えてきた。
 住民それぞれが知恵を活かした取り組みはますます盛んだという。「十年後のために今、木を植えるという作業ですが、いろいろな知恵が出てきています。自分たちの土地の道側にクルミを植えてクルミ街道をつくろうという運動をしている人たちもいます。あと四、五年も経てばきっと立派な街道になる」と花岡社長は期待する。そのような住民の活動には、東御市も資金面でのバックアップなどで積極的に協力している。
 住民と行政が一体となった「日本一のクルミの里」の取り組み。そのきっかけをつくった花岡社長の目標は「一万本のクルミを植える」ことだ。

散歩ができる癒しのまちとして生き残っていきたい

 花岡社長は「田中商店街協同組合」理事長の顔も持つ。
 田中商店街が最も栄えたのは繭糸の集荷が盛んだった昭和13年頃。しかし戦後、商業者の転廃業が急増、さらに国道一八号線の整備で上田、小諸両市が近くになったことや大型店の出店などが拍車をかけ、客離れが進んだ。
 そのような時代の変化に対応し、さらににぎわいを取り戻すべく、商店街では平成元年から共同駐車場、駅前広場の整備、コミュニティ道路整備事業など、街路事業を中核とするまちづくりに着手。現在、電線のない県道沿いに蔵づくりを活かした商店や和風の住宅が建ち並び、美しい街並みが形成されている。
散歩ができる癒しのまちとして生き残っていきたい まちづくりの先頭に立ってきたのが花岡社長だ。「駅を頼りにしてもだめ、かといって車に対応したまちづくりでは郊外店の集合体になってしまう。商店街としての良さを残すためにはどうするか。それをみんなで勉強してきました」。
 そこから導き出したのが、地域の住みやすさを第一にした”人間関係で温もりいっぱい“のまちづくり。「国籍不明のまち、記憶喪失のまちにならないように」、和風をコンセプトにした建て替えや、街路樹には地元の木を植えてもらうこと、石畳の素材選びまで要望した。
 「散歩ができる癒しのまちとして生き残っていきたい。その中で商売も変わっていくことが必要」と花岡社長は将来ビジョンを思い描く。地元で生まれ育った人からすれば「よそ者」であり、「変わり者」呼ばわりされたこともしばしば。それでもまちづくりにかける情熱は人一倍だ。
 「子や孫に、お父さんの生まれ育ったところは素敵だねと言ってもらえるまちが創れれば努力の甲斐があるというもの。別に感謝されるためでなく、自己満足でやってるんですけど(笑)。良いまちができても商売にプラスにならなければ商店はその恩恵に預かれない。そのためにもずっとまちづくりに関わっていきたいですね」
 経営者にとって大切なことは「どん欲にチャレンジすること」だという。たとえ失敗しても、そこからまたアイデアが湧いてくる。それが花岡社長のバイタリティの源泉だ。



プロフィール
柳澤 日出夫さん
代表取締役
花岡 利夫
(はなおかとしお)
中央会に期待すること

中小企業施策についての提言
 特に異業種交流のコーディネートでは草分けであり、ずいぶんお世話になっている。まちづくりには“檀那衆”が地域にどれだけ育っているかが重要。それを中央会から学ばせてもらった。

経歴
1951年(昭和26年4月)生まれ
信州大学農学部中退
1978年2月 花岡入社
1995年6月 代表取締役に就任
公職  

東御市田中「うるおいのある美しいまちづくり住民協定」運営委員長、リフレッシュたなか推進委員会副委員長、田中まちなみデザイン会議議長、日本くるみ会議事務局長

など多数

出身   山口県宇部市
家族構成   妻、義父、孫
趣味   庭いじり

 

企業ガイド
有限会社 御菓子処 花岡

本社 〒389-0516 長野県東御市田中179
TEL(0268)62-0236 FAX(0268)62-0231
創業   江戸中期
資本金   500万円
事業内容   和菓子・洋菓子の製造・販売
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