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月刊中小企業レポート
更新日:2006/03/30

特集2 地場産業における技術の伝承 その2
―飯山仏壇と飯田水引にみる、伝統技術の継承・発展への取り組み―

 主として地元の資本による中小企業群が一定の地域に集積し、技術、労働力、原材料、技能(伝統技能も含む)などの経営資源を活用して生産、販売活動をしているもの、と定義される地場産業。
 その中には数百年の歴史を持ち、今日まで脈々と技術が伝承されてきたものも少なくない。ただし産業として成立するためには、伝統だけでなく、時代のニーズに応えるモノづくりも重要なファクターとなる。
 「飯山仏壇」(飯山市)と「飯田水引」(飯田・下伊那)は、どちらも長い歴史を持つ伝統産業。伝統技術を生かしつつ、新しいモノづくりに果敢に挑戦するその取り組みを紹介する。

伝統の技術・技法の継承とともに、ニーズをとらえた商品提案も模索。
― 飯山仏壇 ―

雪国の小京都、寺の町・飯山に伝統の飯山仏壇

 飯山市は、天正7年(1579年)上杉謙信が築城し、江戸時代には本多氏の居城となった飯山城の城下町。雪深い北信濃にありながら、千曲川の船便の起点であり、物資の集散地として栄えた。
 また、文豪島崎藤村がたびたび訪れ「さすが信州第1の仏教の地」とその代表作の冒頭の1節に著し、「雪国の小京都」と言わしめた寺の町としても知られる。「破戒」のモデルになった浄土真宗真宗寺、松代藩主真田信之の子である正受老人ゆかりの禅寺、正受庵など、市内には由緒ある寺社が数多く点在する。
 地場産業である「飯山仏壇」は元禄2年(1689年)、甲州から来た寺瀬重高が素地仏壇を手がけたのが始まり。もっとも、室町時代に浄土真宗が北陸から伝えられ、飯山を中心とする北信濃に広く根をおろしていく中で、仏壇づくりが行われていったのではないかとも考えられている。
 飯山仏壇が今日まで発達してきた要因は、(1)仏教信仰のあつい土地柄、(2)城下町政策および寺社政策、(3)木材などの仏壇原材料が地元にあった、(4)漆塗りに最適な清澄な空気と適度な湿気を持つ気象条件に恵まれた、などがあげられる。
 昭和50年に「伝統的工芸品」に指定。飯山仏壇事業協同組合に加盟する仏壇店は現在、愛宕寺町を中心に16社あり、それぞれに個性あふれる飯山仏壇を製造・販売している。

8つの製作工程で伝統的技術を継承、発展

 飯山仏壇の製作工程は、「木地工程」「宮殿工程」「彫刻工程」「金具工程」「塗装工程」「蒔絵工程」「金箔押し工程」「組立工程」の8部門に分かれ、それぞれの分野で伝統的技術の継承、発展が行われている。
 伝統的な技術・技法は、(1)長押(なげし)が弓形をしていて宮殿(くうでん)がよく見えること、(2)宮殿が「肘木組物」によってつくられ、せんたくが可能なこと、(3)蒔絵は立体感を持たせるために「胡粉盛り」になっていること、(4)いつまでも美しい艶を保つ「艶出し箔押し」による金箔押し、(5)かざり金具が多く使われていること、(6)木地の構造が「本組み」による組立式、(7)精製漆を手塗りする塗装、など。
 木地に使われるのは、マツ、スギ、ヒノキ、ホオノキ(宮殿のみ)、カツラなど。厚い木をふんだんに使用するため、目方が重いのが飯山仏壇の特徴にもなっている。柱と台輪、柱と板を雌雄型によりしっかりと組み合わせる(本組み)ため、木材の伸縮や、振動、ねじれ狂いがない。
 本組みされた木地は、くさびを引き抜くと組み立てた逆順で簡単に分解できる。古くなった仏壇を分解し、各部品を洗って再塗装する「せんたく」により、再び美しく蘇らせることが可能だ。
 金具は、銅または真ちゅう板を使用。これを梅酢を使った独特の鍍金(めっき)法により耐食性を出し、キズがつかないように1度のり付けをして加工される。そのためせんたくの際にも、再び梅酢鍍金して再使用できる。
 このように、仏壇としての機能はもとより美しさをいつまでも保つことを考え、そのための工夫が各所でなされているのが、飯山仏壇の大きな特長といえる。

組合、職人がそれぞれに技術継承・発展に取り組む

飯山の伝統的工芸品「飯山仏壇」
飯山の伝統的工芸品「飯山仏壇」
 現在、経済産業大臣より伝統工芸士として認定されているのは、木地、蒔絵、金具、彫刻、宮殿の各分野の14人。すぐれた伝統技術をさらに磨くことを目的に「伝統工芸士会」を組織し、お互いの技術・技法の研鑽、親睦や情報交換などの活動を続けている。また飯山仏壇事業協同組合でも毎年、担当委員ごとにさまざまな技術講習会を行い、飯山仏壇全体の技術力向上を図っている。
 一方、「奥信濃特産まつり」「お仏壇供養祭」「お盆灯ろう流し」などのイベントを継続的に開催し、一般消費者へのPR活動も積極的に行っている。特に昭和60年に始まった奥信濃特産まつりでは、飯山仏壇伝統工芸士による実演のほか、蒔絵・金箔押し・彫金などの伝統工芸体験が人気を集めている。
 もっとも、宗教観の変化により仏間のない住宅の増加、ライフスタイルの多様化といった時代の変化は、飯山仏壇にも厳しい現実を突きつける。さらに追い打ちをかけるのが、価格の安い海外製品の流通。
 後継者不足から廃業を余儀なくされる関連業者も少なくない中で、伝統産業としての存在感をいかに発揮していくかが、飯山仏壇にとっての大きな課題。そのような状況を真摯にとらえ、伝統的な技術を継承・発展させながらも、新しい仏壇づくりへの取り組みも見られる。
 ある組合員は「新たなものを生み出すことで技術を残し、新しい産業を生み出す」がテーマ。「多様化する消費者ニーズに対応したモノづくりをしていかなければ、飯山仏壇の技術を残すことはできない」という危機感から、伝統的な金仏壇だけでなく、洋室にも置ける金仏壇、和木・洋木を使ったもの、ダイニングテーブルにも置けるものなど、時代感覚にマッチした新しい仏壇を積極的に提案している。
 組合でも北信濃のもうひとつの伝統工芸である内山和紙と連携、新しい製品の開発、販路の開拓への取り組みもめざしている。

 

組合、生産業者、行政が一体となり、伝統の継承・発展に努める。
― 飯田水引 ―

約3千種類にもおよぶ、多種多様な飯田水引製品

 日本古来の伝統的風習、特に冠婚葬祭には欠かせない役割を持つ、雅やかにして美しい水引。飯田は現在、全国約70%のシェアを持つ一大産地として知られる。特に元結は、(財)日本相撲協会に納入する唯一の生産地であり、大相撲の伝統を支える重要な役割を果たしている。
 日本の水引の起源は、飛鳥時代に遣随使小野妹子が帰朝した際、随の答礼使からの贈り物に、航海の無事と平穏を祈る紅白の麻紐が結ばれていたことにあるといわれる。ここから宮中への献上品は紅白の麻で結ぶ慣例が生まれ、平安時代に「水引」と呼ばれるようになったという。
 飯田水引の始まりは江戸時代。以前から和紙づくりが盛んだったことから、寛文12年(1672年)野州烏山から移封されてきた飯田藩主堀美作守親昌が、より付加価値の高い元結の製造を奨励したことによる。その後、販路開拓のために持ち込んだ両国相撲でその丈夫さが高く評価され、江戸に店を出した桜井文7の名から「文七元結」というブランドで、江戸で高い人気を誇ったという。明治に入り断髪令により大打撃を受けたのを機に、水引製造業に転換して今に至っている。
 飯田水引製品は大別しても約3千種類にもおよぶ。第1次製品(紅白・白黒水引、色水引、金銀水引など)、第2次製品(生水引を平面的な模様に加工した祝儀用品)、第三次製品(生水引を立体的に加工した高級結納品飾りなど)に区分され、全体の6割を占める結納品を筆頭に、金封、生水引、正月飾りで9割を占める。また、全国市場をほぼ独占しているのし、神社仏閣用品などの祝儀用品も手がけている。

床飾り
床飾り
関東式結納品
関東式結納品

ピークの時代に培った 職人芸が支える水引生産

 飯田水引の生産額は平成13年現在、飯田・下伊那地方の地場産業総生産額の約10.6%を占める約70億円。「飯田水引協同組合」加盟の27社を中心に43の工房がある。統計上、総従業員数は4百80人となっているが、約3千人の家庭内職者が生産を請け負う典型的な問屋制家内工業を成している。
 製造の中心的役割を担う製造問屋は、以下のような役割を果たしている。
(1)原料の仕入れ
 生水引を生産する企業は飯田と並ぶ産地である伊予三島・川之江から原紙を、その他の企業は地元、京都、伊予三島・川之江から水引を仕入れる。
(2)下請け・外注
 内職者に生水引などの材料を渡し、加工・細工を依頼する。下請け・外注先は家庭内職者、生水引製造業者、印刷業者、紙器製袋業者など。
(3)生産
 内職者が加工したそれぞれの部品を自社工場で組み立て、水引工芸品や結納品として完成する。
(4)営業
 全国各地に社員を派遣し、製品の販売にあたる。最近ではインターネットによるオンラインショッピングを開始するなど、より間口を広げている。
(5)情報収集・製品企画

今に残る水引職人
今に残る水引職人
 営業を通してフィードバックされた情報をもとに、新たな製品の企画およびデザインを行う。
 飯田水引は昭和50年代後半から平成7年の最盛期には、飯田水引協同組合全体で約6千人の内職者を抱えていた。それでも生産が追いつかず、海外への進出も図り、一万人産業ともいわれたほどの隆盛を誇った。
 しかし現在、景気の落ち込み、少子化、祝儀・不祝儀の簡素化、海外での生産力向上といった、さまざまな要因から約3千人規模へと減少。女性が大多数を占め、経験20年を超えるベテランである60歳以上の高齢者の割合が高く、新しく始める内職者は少ないのが現状だ。
 つまり、水引生産のピークの時代に培った職人芸ともいえる技術力が、現在の飯田水引生産を支えているのである。

体験プログラム等で水引への関心を高める活動も

 少子化と結納品離れの風潮への危惧から、飯田水引協同組合では結納の意義を説明するパンフレットを作成したり、「結納祭(おたきあげ)」の行事に力を入れるなど、積極的にPR活動を行っている。
 特に積極的な活動を展開しているのが、同組合青年部。平成10年(1998年)の長野オリンピック・長野パラリンピックでは、参加選手、役員、海外報道関係者に記念品として「結び」の心を象徴する水引細工を贈呈。特に長野パラリンピックでは、水引細工の月桂冠をメダリストに授与し、世界に飯田水引が紹介された。
 さらに同組合青年部では、長野県総合教育センターなどの教育機関で水引体験講座の講師を務めるなど、水引アートへの関心を高める活動にも取り組む。さまざまなアイデアをこらし、日本の伝統的な水引の良さをより多くの人に知ってもらおうと頑張っている。
 同組合の田中正彦理事長は「新たな発想を生むためには、他の地場産業との積極的な交流も必要。東和会(菓子組合)との交流では、菓子折の中に水引飾りを入れて美しさを演出するという発想が生まれた。また南木曽ろくろ工芸とは、お互いに業界の枠を超えた自由な意見交換を行っていこうと考えている」と話す。
 一方、飯田市商業観光課でも地場産業を観光面からも検討すべきとして、平成8年度から体験型修学旅行の事業を開始。飯田・下伊那の多様性を活用した百近くのプログラムを用意し、年々参加学校も増えるなど、全国的に関心、評価が高まりつつある。この体験プログラムのひとつ「伝統工芸・クラフト創造」の中に水引細工も加えられている。
 また平成14年(2002年)末現在、水引業者数社が飯田IC近くに、水引工芸細工の実演や体験ができる水引細工体験館を開館。ドライブイン、土産品販売店をかね、多くの観光客を集めている。
 飯田水引は高齢化する職人の問題は抱えながらも、事業協同組合、生産業者、行政が一体となって伝統技術の継承・発展に努めている。

長野冬季パラリンピックに採用された勝者用月桂冠
長野冬季パラリンピックに
採用された勝者用月桂冠
平成15年開催の中央会全国大会で小泉首相の胸元に水引のリボンが付けられた
平成15年開催の中央会全国大会で
小泉首相の胸元に水引の
リボンが付けられた
各種イベントなどの胸元を彩るネームバッジ
各種イベントなどの
胸元を彩るネームバッジ
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