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月刊中小企業レポート
更新日:2006/03/30
短期連載 マガさんの激動中国記 その1 1978年、改革開放を打ち出した中国はその後遅々とした歩みながらも路線を維持し92年、小平による「南方講話」から一気に加速、日本の円高による海外拠点建設にも乗り、華南地区から始まった経済成長には目を見張るものがあります。その中国に94年から現在まで10年に亘って単身乗り込み、成長の「表」も「裏」も知り尽くした「マガさん」が見ている中国の真実を1年間のシリーズでお送りします。

市内の幹線道路深南東路です。
 今月から1年間、私が見聞している「生」の中国を紹介していきます。今回は初めて赴任した頃の華南地域のお話です。(97年頃の記録ですから現在とはかなりかけ離れた部分もありますが、大筋ではさほど変わっていません)。
 1993年4月に現地工場調査という事で初めて中国へ来て以来、何度かの出張の後、94年2月から駐在勤務に入りました。1978年の経済開放政策以降、急激に変化する中国その提唱者である小平の死、香港返還、マカオ返還等様々な出来事を体験する事ができました。会社として初めての海外(中国)生産であり、全てが初めて経験する事ばかりでした。この間1番苦労した事は何といっても言葉です。現地工場では専門用語も全て中国語です。たとえば、トランス(火牛 ホー ニュー)、ニッパー(剪鉗 ジエン チャン)、工程(流程 リュウ チャン)部品(元件 ユエン ジュエン)無理やり(勉強 メン チャン)おおよそ(左右 ゾウ ヨウ)のように漢字でも日本と違う意味になってしまいます。最初は通訳がいませんでしたので中国語の辞書を片手に悪戦苦闘でした。通訳を雇用してからはだいぶ楽になり、自分の生活のための中国語を勉強して、段々と日常生活もなれてきた頃には既に1年以上過ぎていました。
 私が駐在した広東省深地区は中国の中でも1番香港に近く、早くから開放政策の元に日本を始めとする外国企業が進出して経済発展は目を見張るものがあります。その上、内陸部(四川省、湖南省、江西省等)からの多くの出稼ぎ労働者であふれ、労働力には事欠かない状況です。必要に応じて、工場入り口へ募集の張り紙をすればいくらでも従業員は集まりますし、仕事量が減った時は募集を中止して残業を少なくすれば辞める人が多くなり、従業員の調節ができます。
東莞東駅=内陸へ向かう長距離列車の専用駅です。新駅舎が2003年に完成しました。以前のバラック駅舎の写真が無いのが残念です。
春節休暇の前後は人でごった返しています。今年からは一列に並んで構内へ誘導するようになりましたが列車に乗り込む時は我先にと殺到し今年も3人の死者が出ました。
 こんな状況ですから平均勤続年数は6ヶ月から1年以内であり、製造に当たっては、作業を出来る限り細分化し、単純作業による人海作戦が主力となります。けれども、どうしても製造技術が必要な作業は残ります。はんだ作業を始めとしたこの製造技術の指導と日々管理による製造技術レベル確保(特に4M変動の管理)が大切です。これによって品質、納期を確保し海外生産のメリットを活かして会社業績に貢献する事が現地駐在員の使命ということになります。広東省(華南地区)の工場労働者は殆どが20歳前後の若い女性で賃金は毎日4時間残業(夜10時まで)で1ヶ月5~600元(日本円で7,500~9,000円)です。全員が会社の寮に住んでいるので食、住の心配はなく収入の半分以上を故郷へ送金して、残りわずかな小使いで生活している毎日で、寮と工場の往復が彼女達の生活の殆どです。そして土、日曜日の夜、工場近くの広場は1元(15円)のアイスクリーム片手に同郷の友との語らいのため沢山の人が集まって、まるで祭りのようです(日本の各地の夏祭りのような人出が毎週末に出現します)。街には沢山の商店があり物資は豊かです。昼間何もなかった広場や道路が夜には商店街に変身して、机と椅子があればレストランが出現します。食事はとても安くて夕食に30元(450円)もあればビールに腹一杯の料理を食べる事ができます。
近郊の農家です。すぐそばまで工場が建って数年の内には此処も工場団地かも?
 しかし隣接する香港は非常に物価が高く、よって賃金も高いので香港の人達にとって1時間余りで到達する(香港に比べ)物価の安い深は絶好の買い物の場所となります。そして多くの香港人が買い物や遊びに深へ入ってきます。その結果、市内(経済特別区)は他の地区に比べてかなり物価が上昇しています。それでも週末ともなれば多くの香港人が入境してうるさいとしか言いようのない広東語が飛び交い、夜の深はとても此処が社会主義国、中国の都市とは思えないような姿を現します。私は此処を中国と呼ばずに深国と呼んでいました。日本に紹介される北京や上海とは違った中国の都市が、此処深には存在します。又多くの日本人がマスコミを通じて知る中国は開放政策が進み、ここ数年でかなり豊かになり、今にも日本に追いつくような感じを持っている人がいると思いますが、それは中国政府(北京)が対外的に報道している部分だけであって、広い国はまだまだそんなレベルには至っていません。確かに沿岸地区は多くの外国企業が進出し経済も発展して一般の人達の生活は豊かになってきていますが、内陸部にはまだ年収500元(8,000円)以下の貧困層が8,000万人もいて、中国政府は2000年までにこの人達を貧困から脱出させる計画を立てていましたが、なかなか計画通りにはいっていないようです。この人達は殆どが少数民族(中国には55の少数民族がある)でその多くは内陸(貴州省、雲南省、etc)の山岳地帯に住み、先祖からの土地を離れようとしない、教育も行き届かず文盲率が高く字が読めない、計算ができない、標準語が話せない(中国には200種類の言葉があると言われている)ことが多く、収入が多くなると判かっていても沿岸部へ出稼ぎに行くこともできない、土地は痩せていて農業も肥料が少ないから収穫もわずかというようなことで、貧困から抜け出せない人達なのです。
 今中国では1割の金持ちと9割の貧乏人と言われています(13億+αの1割ですから日本の全部ぐらいは金持ちです)。それが沿岸部から豊かになり、3~4割の人達が金持ちになってきた時に国全体としての問題が起きるのではないか、沿岸部と内陸部の格差(小平の改革開放によってできた歪み)をどうやって縮めるか、今中国では西部地区開発に力を入れている事でも判るように、そこがこれからの中国の発展段階における非常に難しいところだと言われています。次号に続きます。

著 者 近 影

上海陸家嘴金融街にて
(左端が日系の森ビル)
著者プロフィール
 長野県内の通信機器メーカーに勤務中、1994年(平成6年)に同社初の海外生産拠点立ち上げのため中国華南地区に赴任。香港返還など歴史的事件にも遭遇し98年同社を退職後、中国での工場立ち上げと税関業務、労務管理、人脈等に精通した知識を請われ、同じく華南の日香合弁香港企業に工場責任者として就職。2002年に同社を退社後、悠々自適の生活に入るつもりも、その貴重な中国の知識、経験をかわれ東大阪に本社を持つ中小企業の中国法人の顧問として迎えられ上海近郊の工場に赴任。昨年末には同社の華南拠点に異動、常勤顧問として工場管理から対外業務一切を仕切る。
 日系企業での現職の他、過去に勤務した会社で働いていた中国人が独立を志すなか、相談を受け1社の董事長と1社の顧問を引き受けるなど民間レベルでの日中交流にも貢献、多忙な毎日を過ごしている。
 現在62才。
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