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月刊中小企業レポート
更新日:2006/03/30

特集2 地場産業における技術の伝承
―木曽漆器と農民美術にみる、伝統技術の継承・発展への取り組み―

 輸入品の増加、生産拠点の海外移転にともなう空洞化など、地域経済は大きな環境変化の波にさらされている。特に地場産業にとって、その影響は深刻であり、産地としての生き残り方策が大きな課題となっている。
 主として地元の資本による中小企業群が一定の地域に集積し、技術、労働力、原材料、技能(伝統技能も含む)などの経営資源を活用して生産、販売活動をしているもの、と定義される地場産業。長野県においても各地に立地し、それぞれに工夫を凝らした生き残りのための取り組みが行われている。
 地場産業をとりまく環境変化は、その活性化を促す要因として無視できない。例えば、商品やサービスに対するニーズが多様化する中で、地場産業においても、消費者ニーズを的確に把握した商品づくりに努め、新たな需要を開拓していくという積極的な対応が望まれるようになっている。
 一方、技術者の高齢化が進む産地では、これまで蓄積してきた技術や技法、技能の継承が大きな課題となっている。産地からのこうした技術の消滅は産地の機能集積の弱体化、さらには消滅につながる点でも大きな問題だ。
 本特集では、地場産業における技術の伝承という視点から、「木曽漆器」(楢川村)と「農民美術」(上田市)の取り組みを紹介する。

人材育成、新商品開発、文化財修復―。産官連携で漆技術の継承に取り組む。
― 木曽漆器 ―

産官が連携し、新商品開発と利用開拓にも取り組む

 木曽郡楢川村。石川県輪島、福島県会津に次ぐ、全国第3位のシェアを誇る「木曽漆器」の産地だ。
 その歴史は今から6百年ほど前にまでさかのぼるが、飛躍的に発展したのは明治初期から。同村で漆器の下地づくりに欠かせない「錆土(さびつち)」が発見され、丈夫な本堅地漆器の生産が可能になったからだ。
 宗和膳の生産、堆朱塗の技法が開発され、やがて座卓などが主要製品となり、木曽漆器の主産地としての地位を確立。そして戦後、通産省により「重要漆工業団地」に指定されるとともに、高度経済成長とレジャーブームも手伝って、旅館を中心に全国で木曽漆器の膳や座卓などの需要が拡大。漆器生産量は大きく伸びた。
 現在、生産品目は、盆・膳30.3%、座卓・棚25.5%、こたつ板23.5%、その他20.7%の割合。どちらかというと大きな製品が得意だが、座卓やこたつ板などの売れ行きは鈍化している。
 それだけに新商品の開発には積極的。1998年の長野オリンピックの際、金・銀・銅の記念メダルを製作したことで話題を呼んだ。最近では、時計、ガラス素材、コンピュータ製品、新感覚の仏壇(厨子)など、多彩な商品に挑戦している。また、平成12年から村内の学校給食に漆器の使用を開始するなど、利用開拓にも力を入れている。
 これらは村、木曽漆器工業協同組合と、(財)木曽地域地場産業振興センター(平成6年設立)が共同で取り組んでいるもの。(財)木曽地域地場産業振興センターは、木曽地域全体の地場産業振興を目的とする施設で、楢川村村長が理事長を兼ねる。木曽漆器の振興に特に力を入れ、新しい商品・作品の紹介も積極的に行なっている。

学校、弟子入り奨励制度で、技術の伝承と後継者養成めざす

木曽堆朱
木曽堆朱
 昭和49年「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により、「木曽春慶」「木曽堆朱」「塗り分け呂色」の3技法が第一次指定。その技法は今日まで多くの職人に受け継がれている。
 同村ではこのような伝統技法の伝承とともに、後継者養成にも早くから積極的に取り組んできた。昭和50年に木曽漆器が「伝統的工芸品」に指定を受けたのを機に、木曽漆器工業協同組合に訓練実施主体の設立委員会が発足。「漆器製造技術の伝承と研究、若い後継者を育成すること」を目的に、昭和51年に木曽高等漆芸学院を開校。長野県認定職業訓練校として現在に至っている。
 同校には「漆器科」「工業デザイン科」の2課程が設けられ、2年で卒業する養成訓練と短期の成人訓練がある。教科は「木工(木彫)」「加飾(沈金、蒔絵)」「きゅう漆(漆工)」の分野に分けられ、伝統的技法の修得をめざす。入校資格は木曽漆器に就労している人、または将来就労を予定している人に限られる。
 受講料および教材は無料で支給し、講師は長野県職業訓練指導員の資格を持つ木曽漆器伝統工芸士が務める。運営費用は、国と県、村からの財政補助と、訓練実施主体である組合の費用負担によってまかなわれている。
 さらに「木曽漆器弟子入り奨励制度」も設けている。これは村内の漆器製造企業(店舗等)へ弟子入りする人に対し、奨励金を支給する制度。村内の居住者(30歳以下)で、木曽高等漆芸学院の訓練生であることが支給の条件で、該当者には月額2万円を2年間にわたって支給している。

文化財修復に数多くの実績。漆工技術の継承・発展にも

木曽漆器の学校給食で使用。
木曽漆器の学校給食で使用。

 先に紹介した、(財)木曽地域地場産業振興センターと木曽漆器工業協同組合の合同事業でもうひとつ特筆されるのは、文化財修復事業への取り組みである。
 漆工技術は、飛鳥から奈良時代にかけて飛躍的に発達。建物から装飾品、芸術分野にまで取り込まれ、日本の重要な文化財として今に残されている。しかし、経年変化によって老朽化が進み、損傷した文化財も多く、それらを将来に引き継いでいくためには「修復」という作業が欠かせない。
 文化財の修復は、漆工職人としての高い技術力はもとより、1つ1つの文化財に対して、その価値を維持するためにはどのような対応が有効か、さらに損傷を与えないかを十分に協議、検討することが重要。「修復」はその要件を満たすことで初めて使われる用語であり、文化財の修復には哲学と倫理観が要求される所以だ。
 木曽漆器はこれまで、国宝で世界文化遺産にも指定されている西本願寺・阿弥陀堂仮設養生板・御影堂蔀戸、厳島神社高舞台をはじめ、数多くの国宝・県宝の修復を手がけてきた。その実績から技術に対する評価も高い。
 日本が世界に誇る漆芸文化。木曽漆器はその一翼を担い、先人たちの創意と工夫によって伝統の技を継承・発展させてきた。そして今、その技術を明日に伝えるため、産地を上げて取り組んでいる。
 木曽漆器が手がける文化財修復の取り組みは、文化財の保護、継承だけでなく、木曽漆器が代々培ってきた漆工技術の継承・発展という意味でも重要な役割を果たしている。

 

農閑期の副業として始まった農民美術。今日まで伝承される、その精神と技。
― 農民美術 ―

木彫りの民芸品づくりを趣味と実益をかねた副業に

 ケヤキ、セン、カツラ、ホウ、クルミ、シラカバなどの材に、信州の美しい自然や上田獅子といった郷土芸能をモチーフにした木彫をほどこした、素朴ながら芸術的で、実用性をあわせ持つ工芸品。それが「農民美術」である。版画家であり洋画家だった山本鼎(1882―1946)の提唱により、大正8年(1919年)に小県郡神川村(現上田市)で始まった。
 山本鼎は4年間にわたるヨーロッパ留学から帰国途中の1916年、モスクワに半年ほど滞在。そこでロシアの農民が製作したすばらしい木彫りの作品に出会い、心を打たれる。
 当時、日本の農村は非常に貧しく、特に信州のような寒い地方では長い冬の間、何もすることがない状態。その打開策として考えたのが、木彫りの民芸品づくりを趣味と実益をかねた副業とすることであり、「農民美術」の創業だったのである。
 大正8年、山本鼎は両親が住む神川村の神川小学校の1室に「農民美術練習所」を開講。初代中村實をはじめとする数名が参加し、鍬を持つ手に彫刻刀を持って農閑期の製作活動を開始した。その作品が評判を呼ぶ。
 大正10年(1921年)、農民美術練習所「蒼い屋根の工房」を神川村大屋に完成。その翌年には農民美術講習修了者による生産組合を組織し、本業として年間を通して製作するようになる。そして、新たに設立した「日本農民美術研究所」が中心となり積極的な普及活動を展開。もうひとつ山本鼎が唱える自由画運動とともに、農民美術は全国各地に広がっていった。

時代のニーズにあった農民美術の開発に取り組む

 ところが昭和6年(1931年)の満州事変勃発から、農民美術には暗い影が覆い始める。昭和9年には国の補助金が打ち切られ、1部を残して組合が解散状態に。第二次世界大戦中には、ごく1部を除いて活動停止を余儀なくされてしまうのである。
 戦後、全国の多くの組合は復活することがなかったが、上小地方の生産者たちが生産活動を再開。昭和30年(1955年)から36年にかけては、県の肝いりで後継者の育成に着手した。
 さらに練習所第一期生の初代中村實が発起人となり、山本鼎の功績を伝える「山本鼎記念館」を昭和37年に竣工。以来、各種資料の展示の他、農民美術、絵画、版画などの講習会が開かれ、農民美術はもとより地方文化の拠点としての役割を果たしている。
 昭和57年には県の「伝統的工芸品」に指定。生産品目は、壁面装飾品、マガジンラック、ティッシュボックス、文房具類、装身具、人形など多種多様だ。「美的価値を忘れず、素朴、堅牢で、安価に求められるもの」という山本鼎の理念を受け継ぐとともに、生産者の個性を生かし、新しい時代のニーズにあった農民美術の開発にも力を入れている。
 現在、専業で製作を続ける農民美術作家は20名ほど。初代中村實の長男、2代目中村実氏は先代の技を直接受け継ぐ重鎮。3代目となる次男・羊介氏とアトリエで一緒に仕事をしながら、時々その手先を見、道具の使い方、力の入れ方、彫る方向などを「体と体、心と心」で教えている。
 「利便性ばかりが求められる時代だが、山本鼎氏が提唱し、現在も息づいている”本当の農民の心“が入ったものを作り続けること。それが技術の伝承だと思う」。中村氏はそう話す。


寄 稿
「農民美術と業の伝承について」
2代目 中村 実

 大正デモクラシーを背景にした上田地方の土壌は、白樺派をはじめ、農村文化の高揚に息吹が芽生えていた。
 山本鼎の農民美術の提唱に対し、当時の村の中枢、村長尾崎彦四郎、小学校長岡崎袈裟男、資質ともに蓄えた金井正等々が、表裏一体の努力をした。一方、山本鼎は博愛を衆に及ぼし、困窮者を見捨てることのできない、心豊かな壮年画家であった。当時、日本の農村は疲弊の一途をたどり、貧困を余儀なくされていたのである。農村生活を明るく豊かなものにしなければ、その国の発展はないと説き、農民美術普及のため、北は樺太から南は鹿児島まで、全国60余カ所にも及ぶ講習会を開いた。
 中央画壇で活躍する盟友を尻目に、絵筆を捨て、上田の地において農民美術運動に傾注。一時は、神川村が赤になってしまうと憂えた村の古老も、鼎の神髄にほだされ、明るい村造りが始まったのである。
 かつて男系の男子が家業を継承することがごく一般的であり、私は何ら抵抗もなく就業した。当時は第二次世界大戦の渦中で、日本全土が軍事色に塗り潰されていた。私は平和産業に携わることに強い抵抗を感じ、軍隊志願も意中にあったが、父親に農民美術の継承を強く求められたのである。やがて19歳になれば、現役兵として自動的に軍隊へ入れるものと悟った。
 就業中、先代から業の伝授はほとんどなかったと記憶している。昔の徒弟制度はすべてそうであったと思う。ただ、兄弟子が何人もいたので、先輩らしく時折手を取って教えてくれたことが記憶に残っている。
 農民美術連合会に加入し、直接製作活動に手を染めている会員は20名。入門時から現在に至るまで、創始者に対する理念がほとんど異なり、山本鼎の精神が薄れていくのではないかと危惧している。特に業の伝承については、世間の風潮に流されやすい面もあったが、近年ようやく独自の作風が身についた感がある。
 私自身、60年余り携わってきたが、ふり返ると紆余曲折の人生ではあるが、佳き時代だったと思う。神武景気を背景に育った現代人に業の伝承は至難のことと思う。
 半世紀ほど前、当工房を訪れた識者の「労基法が妨げになり、業の伝承は衰退するだろう」と言われたひと言が私の頭から消えない。しかし私なりの指導については、周囲に目線を合わせないこと、具体的にいえば、人の目につかない部分に神経を使うこと、一度手抜きを覚えると2度と元に戻らないこと。私はこの2点を、3代目育成の要点としている。
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