信州の企業人-チャレンジャーたちの系譜-


“~ 創業者の先見性に積極的な 設備投資で付加価値を高め、不動の自社ブランドを確立。 ~”


宮下忠久さん
夏目光学株式会社
代表取締役 宮下 忠久さん


 光学レンズの従来の概念を超えた特殊形状レンズで高収益を上げる企業がある。飯田市の夏目光学株式会社だ。創業者は元海軍将校。彼の先見性と技術者としての手腕が高度成長期に企業を発展させた。しかし、納入先の相次ぐ倒産で存亡の危機に陥り、そこから奇跡的な回復を果たす。入社したばかりの宮下忠久社長はそのすべてを見つめ、創業者から経営を託された後、大胆な合理化と設備投資に踏み切って、同社の看板「エムエフ・レンズ」を揺るぎないブランドにした。

メッキからレンズ加工へ


高精度加工された小径ボールレンズ
高精度加工された小径ボールレンズ
 夏目光学株式会社創業者の夏目哲三さんは、昭和20年11月30日にふるさと喬木村に復員した。海軍時代の大尉(技術将校)の肩書きは、軍人の公職追放が連合軍から指示された日本では、仕事に就くことさえ妨げた。しかし彼が3年半あまり海軍生活で覚えた工作技術が夏目家を救った。
 物資が不足する当時、メスやナイフ、スプーン、自転車など、さびを落としてメッキしなおせば新品同様になることに目をつけ、軍の払い下げでメッキの機械を購入、家内工業を始めた。ときに昭和22年4月、飯田製作所の設立である。
 メッキが中心とはいえ、舞い込む仕事は何でもこなさなければ一家を養えなかった。農機具など機械の修理も請け負った。ところが、昭和25年の朝鮮戦争後、メッキ材料を仕入れることが困難となる。世の中に出回るメッキ製品も次第に多く安くなり、飯田製作所は存亡の危機に立った。
 ちょうどそのころ、オリンパス光学がアルマイト用電源を探していると聞き、夏目さんは自家用の機械と、オリンパスで使われていた中古のレンズ研磨機を交換し、レンズ磨きに進出した。海軍時代に潜水艦の潜望鏡や砲台鏡、方位盤などでレンズに触れ、その加工技術も身に付いていた。当初は勘に頼る作業で、苦難もあったが、夏目さんの粘り強い研究開発の成果もあって、次第に量産も可能となり、レンズ加工は軌道に乗っていった。
 当時、工場として利用していた製糸工場跡は、不運にも火災に遭い全焼してしまう。しかし火事から立ち直った同社は、昭和31年社名を夏目光学工業所と改め再出発した。


突然訪れた倒産の危機

 現在の社長、宮下忠久さんが夏目光学工業所に入社したのは、昭和41年3月のことだ。同社は双眼鏡用のレンズで好況のピークにあった。
 「私は農家の長男でした。農業高校を卒業して家業を継いでみたものの、馴染めません。家の近くに夏目光学の分工場ができたのを機会にこの世界に飛び込みました。光学という言葉の響きに魅力も感じ、夢中で働きましたよ」
 この頃の同社の主力は双眼鏡用のレンズだった。レンズ加工の主体はそれまで顕微鏡用のレンズだったが、創業者は双眼鏡用に特化し、自動研磨機、自動研磨剤供給装置などすべての生産設備を自力で手がけて量産に成功した。日本の高度経済成長に呼応するように、圧倒的な生産能力で他社に勝る夏目のレンズは売れに売れた。
 「期末ボーナスが支給されたほどです。会社の大盤振る舞いに驚き、新入社員の自分も来年にはもらえるだろうと喜んでいました」
 ところが、レンズ市場はこのときすでに生産過剰だった。夏目光学工業所の取引の九割を占めていた東京の商社が8月に倒産、続いて10月には直接納めていたメーカーも倒産し、同社は6ヶ月以上の負債を抱える。
 建て直しを図ろうにも資金調達の目途が立たない。そんなとき、飯田精密工業会の当時の会長近松友二さんが「夏目の技術をここで絶やすのは飯田の損失」と仲間に呼びかけ、会員10名で保証人を務めてくれた。経理部長だった宮下さんは当時をこう振り返る。「昇給、賞与はもちろんなし、残業手当もなしで、社員は3分の1に減った。しかし残ったのは会社再建の意欲に燃える人ばかりでした。そのときの借金は結局2年半で完済しました」


多品種少量生産へ移行

 倒産の危機から立ち直り、それまで双眼鏡レンズ一辺倒だった経営を改め、夏目光学工業所は多角化を目指した。まず独自の販売ルートを立ち上げるため、東京に営業所を設け、業界の情報収集にあたった。目標は製品も販売地域もともに三本柱を設けること。東京の双眼鏡市場、中部地域の顕微鏡市場、関西地域のセンサ市場を狙い、同社は少品種大量生産から多品種少量生産へと経営を切り替えた。
 夏目哲三社長のもと経理全般を任されていた宮下忠久さんは、自己資本比率を高めることに注力した。社員にも役員にも節約を徹底させ、万が一再び危機が訪れたときに備えた。
 「倒産目前の状況にまで追い込まれ、行き詰ったときの経営者の立場も社員の立場も理解できました。そんなとき創業者は社員の前で決して弱腰にならず、常に将来に向かって明るいビジョンを社員に提示していました。私自身あの頃に学んだことが財産です」と宮下さんはいう。
 これまで取引のあった光学系のメーカーと違い、センサなどを手がける機械系のメーカーは、光学の常識を超えた発注をしてきた。「四角いレンズはできないか。穴のあいたレンズはできないか。無理難題が飛び込んできましたが、会社をあげてなんとかできるようにしようと意気込みました」
 試行錯誤のうえ、かまぼこ状のレンズが出来上がった。CDの光ピックアップ用に用いるものだ。何社からも引き合いがあり、とても夏目光学だけでは納入できない状況と判断し、いちばん初めに問い合わせのあったSONYへ納入した。SONYはその後CDプレーヤーで主導権を握ることとなった。


エムエフ・レンズの誕生

 エレクトロニクスとメカニクスが合体したメカトロニクス技術に注目が集まっていた当時、軽薄短小をキーワードにレンズの世界でもメカトロニクス分野で世界に通用する製品をつくることが課題だった。
 かまぼこ状レンズで成功した同社は、光学ガラスを直径1.2ミリから10ミリの球状に高精度研磨加工したボールレンズを開発。次いで直径2ミリから12ミリまでの円柱を輪切りにしたロッドレンズ、レンズ中央に穴のあいたトンネルレンズ、台形、菱形、六角形をしたプリズム、円錐形のコーンレンズなど次々に手がけた。同社のノウハウが集積した特殊形状のレンズラインナップは当初、メカトロレンズと呼ばれていた。
 こうしたレンズは像を見るためのものではない。光の束を糸状、板状、円盤状、リング状、他面反射にするのが目的だ。また素材も光学ガラスから変遷していった。人の目に感じない紫外線、赤外線を利用することが多いため、必ずしも素材は透明でないのだ。
 メカトロレンズはこうして軽薄短小の要請に応え、さらにオプトエレクトロニクスの発展に寄与していった。昭和60年同社は社名を夏目光学株式会社とし、その代名詞であるメカトロレンズは平成元年、エムエフ・レンズと改名された。その名称には同社の夢と自信が込められている。Mは多様化への対応力であるマルチを意味する。fの文字は広範設計思想に基づく特異な形状(フォーム)、それがもつ機能(ファンクション)、貢献分野(フィールド)を意味し、さらには将来(フューチャー)、人類の幸福(フォーチュン)への願いも込められている。


社長交代、新しい経営へ

多用途に応じ加工されたエムエフ・レンズ
多用途に応じ加工された
エムエフ・レンズ
 エムエフ・レンズは現在、半導体設備機械、通信機器、医療機器、OA・FA機器、輸送関連機器、航空機関連の部品として利用されている。利用分野も拡大したが、レンズの加工水準は急激に高まった。半導体分野ではその傾向がとりわけ顕著で、夏目社長がつくり上げた生産設備では対応できなくなっていった。業績も下降に転じた。そんなとき、当時専務だった宮下忠久さんに社長就任の命が下った。宮下さんは決断した。「低迷期に引き受けた方がいい。これから改善すべきことは山ほどある」。代表権を自分のみに付すことを条件に、平成6年4月、宮下さんは社長となった。
 最初に手がけたのは生産の合理化である。品質レベルを上げるため、創業者がつくった設備はすべて廃し、最新の機器を導入した。「それまで職人の手仕事に頼っていた部分を最大限機械化しました。最近のレンズはナノの世界までその精度が高品質化し、計測の仕方等で言葉や手順書などでは伝えきれない部分も残りましたが、職長の管理者としての教育にも力を入れ、チームとして高品質をつくり出す体制を整えました」
 品質向上のために大胆な手段を講じた後、組織力の向上を図った。ISO9002の認証取得で、社内での標準化をさらに高めた。人員配置も見直し、生産と技術・間接部門の人数を半々とした。「生産は今日の米を、技術は明日の米をつくれ。間接にはそれらのサポートを」を徹底させた。
 「社長になって以来10年で10億の設備投資、開発投資を行いました。自己資本率を高めるためにした蓄えがここで生きたのです。これでユーザーニーズの具現化がスムーズになりました」


地域活性化への貢献

 積極的に取り組んだ投資のひとつに、シグマ光機と共同出資で設立したタックコート株式会社がある。夏目光学の特殊形状レンズには、さまざまな仕様でコーティングを施すユーザーニーズがある。研磨加工の途中工程でのコーティングもできるため、コーティング専業メーカーではできないきめ細かな対応が可能で、エムエフ・レンズの付加価値はさらに向上した。
 同社はやはりシグマ光機の上海工場にも出資し、コストダウン要請の強い製品はここにシフトしている。しかし、基本的に今後も日本で勝ち続ける技術を磨き続け、この地域に留まることを選択している。そして宮下社長は飯田下伊那地方が地域全体として活力を取り戻すことを望んでいる。そこで、夏目光学を含めた飯田地域の3社の中小企業と金融機関を含む4社で共同体を組み、地域活性化への貢献を目指して設立したのが株式会社FLCである。
 FLCはFour-Leaved Cloverつまり四葉のクローバーの略で、参加した4社を表すとともに、この地域の未来への思いが込められている。事業内容は細菌の除菌装置の研究、開発、設計並びに製造販売。すでに食品衛生、入浴施設、空気清浄のための除菌装置を製造販売している。
 FLCの開発センターは飯田市桐林にある飯田市環境技術開発センター内においている。「飯田市の環境技術開発センターは、21世紀にふさわしい技術で創業しようという企業の支援センター、いわば企業のふ化器です。FLCがそのモデルケースになれば、この地域でお世話になっていることへのささやかなご恩返しになると思います」と宮下忠久社長は語ってくれた。



プロフィール
宮下忠久さん
代表取締役
宮下忠久
(みやしたただひさ)
中央会に期待すること

 産業のすべての分野での底上げが期待できない時代、企業が生き残るためには、自ら率先して創意工夫を凝らし、努力を重ねるよりほかありません。その土壌をつくるために、勝ち組の成功事例に学ぶ機会を設け、企業家の意欲をかきたてて欲しいと思います。新しいビジネスを生み出す呼び水となるような指針を、中央会さんが示していただけると地域も活性化するのではないでしょうか。
社屋 製造現場

経歴 昭和19年、喬木村生まれ。下伊那農業高校卒業後、夏目光学工業所入社。60年夏目光学株式会社と組織変更の折、取締役総務部長に就任。平成元年同社専務取締役を経て、平成6年より代表取締役。
趣味 昔はカメラが趣味だったが、楽しんで足を鍛えるために、4年ほど前からゴルフを始めた。週一ほどのペースでラウンドする。体と気持ちの健康を保つうってつけのスポーツだと思う。
家族 妻、長女



企業ガイド
夏目光学株式会社
所在地 長野県飯田市鼎上茶屋3461
TEL.0265-22-2434
設立 昭和22年4月7日
資本金 2,000万円
事業内容 エムエフ・レンズの製造及び販売、位相差顕微鏡・各種画像処理装置の販売
事業所 本社・工場、東京営業所、大阪営業所

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