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フレックスジャパン株式会社 代表取締役会長 矢島久和さん |
社内での呼称は”キャップ“ 社内では「キャップ」と呼び親しまれている矢島さん。その由来は、職性で呼びあう習慣を社内から排そうと取り組んだことにある。 「 会社の中で肩書きで呼び合う事に違和感を持っていました。だから名前で呼ぶ事にしたのです。でもまあ急に”矢島さん“と呼んでくれと言っても抵抗があるというので、では ”キャップ“にしようかと言うことになったんです。」 社内には学歴やキャリアを話題にせず、誰でもわけへだてなくコミュニケーションしあう空気が息づいている。まさに社名の「フレックス」に通じるしなやかさを感じさせるのだが、そこには矢島さんのキャラクターがくっきりと反映されていると言っていいだろう。 1951年に早稲田大学理工学部を卒業後、1年間の繊維学修行をして、家業の会社(当時は株式会社加納屋)に入社した。 「もともと跡を継ぐという意識でいましたから、予定通りのことだったのですが、入社して驚いたのはその環境です。熟練した技術を持つ人たちが、朝から晩まで懸命になって働いている。それでも儲からない。これはどうしたことかと。」 当時の同社はいわゆる縫製の下請で、注文のあるものなら何でもこなす。江戸時代から繊維商を営んできた老舗であり、戦前から縫製工場を興して取り組んできた経緯もあり、従業員は20数名程度ながら、さまざまなニーズに応える技術力を持っていた。 「しかし儲かっていないんですよ。苦労ばっかりで。その中でドレスシャツ(ワイシャツ)を手掛けた時だけは割に合うんですね。これじゃないかと。ドレスシャツだけ縫えればうちも引き合うのではないかと、当時社長だった父に進言しました。ものごとのきっかけというのは、まあだいたい単純なものです。難しいのは、その単純な理屈を実際に実現させていくことでした。」 ドレスシャツの製造販売へ ドレスシャツなら自分たちの技術を活かしてやっていける。しかし、下請けのままで都合よくシャツの仕事だけを受注することなどできる筈もない。シャツ専業になるということは、自前で販路を開拓し、仕事を生み出していく必要がある。これまでは支給されていた原材料も、自前で調達し、購入しなければならない。それには資金もいる、販売もしなければならない。 「結局、それで下請けから脱皮することになったわけです。別に下請けがダメというわけではない。ただシャツだけを縫うと言う事はそうせざるを得なかったのです。決して先見の明があったからではないんですね。」 矢島さんが入社した年、1952年秋からドレスシャツの製造販売に着手した。当時社長の矢島久雄氏は根っからの商売人だったので、久和氏が工場でシャツを作り久雄氏が長野・新潟・群馬三県の繊維問屋に売り込んでまわった。今日と違い当時は地方繊維問屋の占める位置がきわめて高かったからである。 当初こそ在庫の山を抱えることもあったが、品質が良く、安価な『加納屋のワイシャツ』は順調に販路を拡大。シャツメーカーとしての評価を高めていった。 「私たちにとって昭和30年代はまさに”儲かった“時代でしたね。現在の本社用地を確保できたのもそのおかげ。しかしやがて売上が頭打ち気味になってきたのです。」 突き当たった壁を乗り越える 企業規模が大きくなると、それまでには想定もしなかった課題が生まれ、壁に突き当たることになる。 「売上は伸びています。でもシャツの市場の拡大に比べると明らかに伸び悩んでいるんですよ。」 問題点は幾つかあった。1つは、ドレスシャツだけでなく、当時スポーツシャツと呼ばれていたカジュアル分野にも力を入れ、販売を拡大しようとしたこと。2つめは、純綿からポリエステル混紡へという素材の変化への対応が立ち後れたこと。縫製工程で、頻繁にパッカリング(縫いじわ)が生じており、これに対処する技術的な対応が遅れていたのである。 「大きくなったとは言っても、人材も体制もまだまだ限られている。それなのに、あれもこれもやろうとするから中途半端になる。それで今度は社員のモラルやモチベーションまで下がってくる。これは会社としてたいへん危険なことだったのです。」 そこで体制の見直しを図った。矢島さん自身が、総責任者として工場部門だけでなく、営業部門も直接見るようにしたこと。社員とのコミュニケーションの改善に取り組んだこと。注力する商品分野の見直しをおこなったことなどである。 また、パッカリングの問題については、独自の接着芯を開発することで乗り切った。 「この接着芯の開発は、たまたま接着芯を研究している人が当社に尋ねて来られ、この人との共同開発によるものです。多分彼が当社ではなく他のメーカーに行っていたら、他のメーカーに先んじられたと思います。そうなれば当社の存続は極めて厳しいものになっていたでしょう。企業でも人でもそうですが、多くの幸運によって支えられてきているのだと思います。」 当時の社名『加納屋』にちなんでカノライズカラーと名付けられた新技術は、同社のシャツブランドイメージを高め拡販に大いに役立った。 企業に息づく『自前主義』とは このカノライズカラーにも見られるように、同社の活動を象徴付けているのが、好奇心と実験的精神であり、自社で開発する姿勢=『自前主義』に繋がるのである。 「これは当初から今日に至るまで、ずっと続いています。まあ、私自身が好奇心の塊のような人間だというのもあるのでしょう。課題や障害があれば、まずは自ら解決に取り組んでみる。外部のすぐれた力も活用しますが、とにかく自前でやってみることにこだわるんです。」 例えば縫製に使用する工業用ミシンは、きわめて精緻な調整やメンテナンスを必要とする産業機器である。しかし東京や大阪と違い、地方にはこれを扱える専門家は少ない。 「当時、腕の良い専門家は、この近辺で1人しかいません。来てもらわないと仕事が止まるんですけれども、呼んだからといってすぐ来てもらえるわけではない。困るわけですよ。しかたなく自分で研究しました。意地でもこなせるようになってやろうと、頑張りました。その方には『あんたにだけは負けた』と言われましたけれども。実際にそうせざるを得なかったことが、後々まで社風のようになって息づいてきたんですね。」 コンピュータの導入などでもこの『自前主義』のスピリッツは発揮されている。昭和41年と言えば、大手でもようやく導入が始まった頃、富士通長野工場開発のコンピュータシステムを導入している。 「本音を言えば、好奇心があるから、とにかく入れてしまえという感じでしょうか。もちろん導入するからには徹底的に使おうと考えていましたから、基本的には自前でソフトの開発も含めて自前で取り組んでいったわけです。」 それが後には、生産管理、在庫管理はもちろん、流通システムや商品開発に至るトータルなシステム運用に展開していく。生産・物流の効率化においても、そうした技術とノウハウの蓄積はいち早い成果を収めることに貢献した。 「地方都市にあるために、自前主義にせざるをえなかったという側面もあります。しかし、こういう気風こそが企業の財産だと思うのです。」 人材不足から始まった海外展開 近年、長野県内からも多くの中小企業が海外での生産拠点を求めて、中国、韓国、アジア地域などに進出を続けている。そうした点で見ると、同社の海外進出はきわめて早い。1970年のことである。 「あの当時は、高度成長期でしたから、長野県はもちろん国内中が人材不足という状態でした。とにかく仕事をしたくても人手が得られない状況だったのです。ご承知のようにシャツ製造というのは、自動化や機械化を進めただけではどうにもならない側面を持っています。必ず技術に習熟した従業員が必要です。そんな労働集約型産業としての強い危機感が、海外へ目を向けさせたというわけです。」 たまたま韓国へ出かける機会があり、矢島さんは1人ツアーを離れて韓国のシャツ工場をみて回ったという。訪れてみると、有力な工場には、既に日本の大手シャツメーカーも視察に来ているようだった。一部縫製の下請けなどでの繋がりも生まれているようだったが、まだ本格的な進出や提携を考えている所はない。しかし、設備や従業員の姿勢から、矢島さんはある程度の感触をつかむ事ができたという。 「そんな折ですよ。商社を介して韓国のシャツ工場から技術指導を求める打診があったんですね。先方でもやはり日本市場を意識していて、シャツメーカーを見学して回ったりしていたらしい。」 どうしても「高原シャツに技術指導して欲しい」という要望であった。しかし、日本市場への進出を意図してのものだけに、ことは簡単ではない。単なる技術移転では、競合するライバルを育てるようなもの。そこで、逆に生産提携を提案したのである。 「当社からは技術ノウハウを提供しましょう、そのかわり、作ったシャツは高原シャツとして日本国内に販売しましょう。それならば互いにメリットが得られる。」 こうして同社の海外生産は始まった。一定の成果を収めたことで、昭和40年代後半には、台湾においても同様の手法による生産提携を行うなど、一足早い海外展開は進展していった。 『今こそ出る時』と決断した 中国進出 現在フレックスは、更埴市の本社工場の他、熊本県に天草フレックス(株)を持ち、さらにインドネシア一拠点中国5拠点、の海外生産拠点を配してグローバルな生産ネットワークを構築している。 「中国への進出は、それまでのケースとは異なります。この時期はコスト圧力がどんどん高まる中で、いかに早く価格競争力を確保する体制をつくりあげるかが重要でした。」 折しも天安門事件が起きている。日本に限らず多くの企業は中国進出に二の足を踏んでいる状況だった。 「私たちはむしろ『今こそ出る時』と判断しました。海外に打って出るのであれば、優れた人材を早期に確保して熟練技術を身につけてもらうことが不可欠です。ですから躊躇している訳にはいきませんから。」 中国への進出は、合弁企業による生産拠点の確立である。それまでの生産提携とは異なり、人材も設備も体制も自ら確保し、構築していかなければならない。多くの場合、日本の企業は、こうした進出に際して、国内の人材を出向させることで対処するケースが多い。 しかし同社が取り組んだのは「あらゆる面から現地化を進める」ことであった。背景にある文化も習慣も異なる場所で企業組織が定着するためには、現地化しなければならないという考えである。 「腰掛ではだめですよ。本当に定着するつもりなら、現地の人々によってしっかりした組織ができなければいけない。ですから現地の経営にあたる人材も、現地の優秀な人材を採用する。現場のリーダーになってもらう人たちには、本社工場で研修をしてもらう。本当の意味で私たちの仲間になってもらわなければならないのです。単純に労働コストが安いからなどという発想でいたら、決して続きませんね。」 このように構築してきた海外生産拠点は、インドネシアにP.T.フレックス インドネシア、中国に厦門の2つ、昆山、武漢、北京の五つを持つに至っている。 海外と国内を両輪に しかし一方で、国内拠点も重視している。 「私は今、フレックスジャパンはこれからもメーカーに徹するんだ、ということを言っています。メーカーであるということは、自前の工場を持って常に技術とノウハウを蓄積しているということです。これからの時代がどのような方向に動いて行っても、それにいち早く対応するためには自前の拠点が欠かせない。そういう考え方です。」 実際に、同社の販売チャネルは、百貨店、専門店、量販店、卸問屋と多様な流通形態に対応しており、ラインナップする商品群もきわめて広範囲に及ぶ。さらには、国内のアパレルメーカーに対するOEM供給も取り扱っている。こうした多品種少量かつ機動性が求められる商品特性において、海外拠点と国内拠点はまさに両輪の役割を果たしていると言っていい。 「私は、経営というのは、理論に忠実であることだと思っています。現状を厳しく分析して、対応策を導き出す。それが正しいと理解したら直ちに実行することです。躊躇するのはもっともいけない。フレックスジャパンはメーカーに徹すると言っているのも、そうして導き出されたことです。今はこのことにこだわるべき時だと思っています。」 話題を集める商品企画開発 さて、同社の商品企画開発力が近年大きな話題を提供していることにも触れなければならないだろう。 例えば「ケナフ混シャツ」。昨年発表されたこの商品は、エコロジー志向の商品として注目を集めている。ケナフは、アオイ科の1年生植物で、成長性の早さと、二酸化炭素の吸収効果などから、地球環境に優しい植物素材として注目されてきた。すでに紙の素材として広く活用されている。このケナフを布地素材として応用する研究開発に、信州大学繊維学部・東洋紡とともに取り組み実用化させたのが、「ケナフ混シャツ」だ。もともと布地素材としての加工は困難とされていたが、6年をかけて成功させた。蓄熱しにくく、麻の清涼感と綿のしなやかさを合わせ持つという。 ブランド展開も活発だ。アメリカの伝統的ブランドである「ハサウェイ」をはじめ「CAMBRIDGE UNIVERSITY「CREW」「KELT」「marie claire pour lui」「MICHIKO LONDON KOSHINO」などお馴染みのブランドがずらりと揃う。かつてのブランド「KOGEN」も高級品として復活し、好評を得ている。 こうした積極的な企画開発を支えているのは社員たち。 「今、経営は総ての面で大変複雑になってきております。複雑さに耐えるには優秀な社員が必要です。当社のような中小企業に、優秀な社員が入るか入らないかは運次第です。先にも申し上げましたように企業の盛衰は運によって支配されております。私は当社は運の強い会社だと思っておりますので、お陰さまで優れた社員が揃っております。」と矢島さん。 会社のスローガンには『私達はいつも進行形』を掲げる。現状に甘んじるのではなく、常に自分を磨き、未来に向かって進む企業姿勢を、社員一人ひとりの心構えとして表現したものだ。 「一見したところ舵取りの難しい時代のように思えますが、実際に世の中で起きていることというのは、以前にもあった出来事のくり返しなのです。現象面は新しくても、中身を構成しているのは昔からよく知られている物事の組み合わせです。ですから、それを見失わないようにすることが、これからは何より大切なのではないでしょうか。」 これからは、少し肩の力を抜いて、ごく普通の生活スタイルを保ちながら、自分らしい生きかたをしていきたいと語る矢島さんだ。 |
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